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東京2020について思うこと

ここ数日、話題になっているのが2020年 東京オリンピックについて。

木材の無償提供の募集が始まるのとともに、対戦中の日本の状況と重ねて「国が市民から搾取しようとしている」というような批判がよく目に入るようになった。

www.huffingtonpost.jp

 

Twitterで「#東京オリンピック」で検索しただけでも、市民の不安や疑念が続々とあらわれてくる。

立場を明確にしておくと、正直私は東京オリンピックとか全然いらないし、あとそもそも東京に全然興味がない。

 

 

でも、先日、東京に転勤になった知り合いが言っていた話を聞いて、少し見方が変わった。

 

 

 

その方は長野出身で、子供時代に1998年の長野オリンピックを経験したそう。

学校行事でオリンピック参加国についてグループ研究をし、選手と実際に交流した体験は今でも覚えている。

言葉にするとただそれだけの体験なのだが、でも誰もができる経験ではない。その時、その場に居合わせたその人だからできたこと、出会えた人、見れた景色、胸に焼きついた何かが、きっとそこにあったのだろう。その思い出を語るその人の目は輝いていた。

 

「自分の子供にも『自分が住む街でオリンピックが開催される』ということに、立ち会わせてあげたい」

 

その言葉が持っていた熱と光は、経済効果などの数字には決して現れない、しかし確実に親から子へ受け継がれていく「人生で大切な何か」だったと思う。

 

 

例えば、自分とこの材木が選手村で使われて、開催後にその材木でベンチでもこしらえれば「東京オリンピックで使われた木のベンチ」を地元に残すことができる。

それを「材木を無償で提供し、あまつさえ加工・運搬までやって、その上に閉会後の二次利用までしてやった」と考えるのか、「2020年に金メダルをとったあの選手も触れたかもしれない、彼らの汗や、選手たちの喜びや悔しさを吸い込んだかもしれない『歴史の一部』が、今ここにあって私は触れている」と考えるのか。

後者のような感覚はあまりにも素朴だ。それを馬鹿馬鹿しいと思う人もいるかもしれないけど、そう思う人は、そうは思わない「参加者」たちにものを言う資格はないし、彼らの気持ちを削ぐような言動は慎むべきだと思う。

「負の経済効果」を換算しようとする人には、数字にならない「参加者の魂に残るもの」を測ることはできない。

 

 

国が勝手に決めたことに市民が振り回される様を戦争に喩えるのも理解できる。

ただでもやっぱり、それであればこそ、戦争をしないだけ日本は良い国だと思う。

 

「戦争ビジネス」という言葉もある通り、戦争による物資需要は経済成長を促す。

経済が停滞している国にとって、「大きな目的のために大規模な需要を生み、どこかの業界が儲ける」というのは必要なカンフル剤なのだろう。

だってよほどの流行りモノ好きでもない限り、日々の暮らしに私たちが必要とするものって、そんなに多くない。最新機種の電子機器も新発売のお菓子もカリフォルニアから発上陸したレストランも、なくても全然困らない。

今ある家に当分住むことができて、今着ている服を大切に扱って、肉や野菜を週に一回買いに行くことができれば、倹しく暮らしていくには十分なのだ。

けれど、最新機種の電子機器を買わなくても私たちは生きていけるが、それを買ってもらわねば生きていけない人がいる。

だから「非常な規模の需要」を定期的に生むことは必要で、そのための手段として他国に戦争を仕掛けたりミサイルを打ったりするのではなく「平和の祭典」を選んだことは、やっぱ日本だな、って感じがする。

 

 

ここまで書いて、我ながらなんかステマ感がものすごいんだけど、

繰り返しになるけど私は「いるか、いらないか」で言うと圧倒的に「いらない」し、決まったことは仕方がないからどうせなら前向きにやればいいのにってくらいの感覚だし、どこまでいっても多分、私は「参加者」にはならない外野の人でいると思う。

でも上記の知人の話を聞いて、自分もオリンピックではないけど「誰もが経験しているわけではない経験をして、それがその後の人生に大きな影響を与えている」から、誰かにとってこの東京オリンピックがそういう体験になるのだとしたら、少なくともその誰かの前では丁寧に扱おうと思うようになった。発表される種々のことについては、んん?と思うことはそらあるけどね。

 

 

 

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