前々からじんわり気になっていた映画「スポットライト 世紀のスクープ」。
この年のアカデミー賞は「マッドマックス 怒りのデス・ロード」が6冠を制したことで話題になりましたが、あんな存在自体が爆発みたいな、見る人 見る人 頭がおかしくなっちゃうマッドがマックスなアレを見た上でちゃんとこの作品を選んでいるアカデミー賞。冷静さと精神力に感心してしまいました。
これは2003年にピュリッツァー賞を獲得したとある新聞報道の、その地道な取材過程を追った実話に基づく作品。
その新聞報道とは、子どもたちに性的虐待をはたらく神父たちと、それを隠蔽するカトリック教会の闇をスクープしたもの。
強大な敵に立ち向かうのは「ヒーローではない」4人の記者
アメリカ・ボストンで、とある神父の児童への性的虐待が検挙されるも、神父は他の教区に異動することで示談で済まされてしまいます。新聞報道も、コラムで触れられただけで大きな話題にもならずに忘れらる。
しかし、ボストン・グローブ紙に転任してきた新局長・バロンは、この80人もの子どもを虐待してきた加害者神父だけでなく、虐待を知っていながら15年間黙認していた枢機卿まで遡ってもっと報道すべきだと考え、グローブ紙の中でも数年スパンでひとつのネタを掘り下げて調査報道する「スポットライト」チームを任命する。
しかし、相手はカトリック教会。その上ボストンでは教会の力が強く、住民たちも敬けんな信者が多い。
虐待神父を訴えている弁護士は教会に目をつけられており、新聞の取材も警戒して「スポットライト」の記者にもなかなか気を許さない。
地域の教会も「地域のため」という大義でグローブ紙に圧力をかけてくる。
さらには裁判所まで、過去の教会の裁判記録を隠蔽。
敵はあまりにも大きい。それに立ち向かうのは、「スポットライト」チームのたった4人の記者たち。
フットワークが軽い鉄砲玉的な存在のマイク。
チームの紅一点、サーシャ。
穏やかなおじさん役マット。
そしてチームリーダーのロビー。
あらすじと予告だけ見て「弱小チームが強大な悪に立ち向かうヒーロードラマ」かと思っていました。しかし予想に反して、この映画はとても静かで、淡々としています。そう、とても静か。
映画はこの「スポットライト」チームの記者たちを軸に展開しますが、「主役」という主役はおらず、この4人が仕事をする姿を時間軸通りに追っていくだけ。彼らは「ヒーロー」ではなく、あくまで自身の良心に従い記者としての職務を全うする「普通の人の一人」としてしか描かれません。
また、事件が事件だけに、いやらしい顔をした神父が子どもにいたずらをするような、いかにも「この人が悪役ですよ〜気持ち悪いでしょ〜」みたいな胸糞悪いシーン(そうまでせずともそれを連想させるような描写)があるのでは…と気を引き締めてかかったのですが、そんなものは一ミリもない。過激な表現、過剰な演出、観客の感情を煽ったり同情を引くようなものは一切ない。とても静かです。静かであればあるほど、怒りが、情熱が、増幅される。
そもそも「この人が例の加害者神父ですよ」という人物は映画の中には一切登場しません。その「敵が目に見えない」ことが、JAWSよろしく「とんでもないものを相手にしている」という静かな恐怖を与える。
神父を訴えている弁護士をなんとか味方につけ、もう大人になったかつての性的虐待の被害者を紹介してもらって話を聞いたり、被害者支援団体や研究者に取材を重ねる中で、この事件は当初思っていた以上の大事件であることが明らかになっていきます。
加害者の虐待神父は1人、過去の記事を遡ってもせいぜい2人くらいだと思っていたのに、取材を重ねると13人の神父が加害者として浮上、さらに調べていくとボストンだけで87人もの神父が性的児童虐待をしているとわかる。ボストンだけで。
彼らは虐待が問題になれば、別の教区に異動し、そこでまた虐待を繰り返す…。
アメリカ全土には、世界中には、何人の神父が今日も子ども達を傷つけているのだろう。
敵に向けた刃は、己にも向く
この事件がいかにおぞましいものか、根深いものかがわかって、「スポットライト」の記者達は震撼します。
それは「こんなにもたくさんの卑怯な変態がいるのか!」という怒りではない。自分たちの生活の中にも彼らがいたかもしれない、今もいるかもしれない。その恐怖に震えるのです。
「スポットライト」の記者たちは、自分たちのスクープが有無を言わさぬ正義であることには疑いを持ちません。
虐待神父を一人ひとり摘発したところで何も変わらない。カトリック教会の「組織」に切り込まなければ、隠れた虐待神父たちは隠れたままで、新な被害者は増え続ける。
正義のために自分たちは、自分にできる、自分がすべき仕事をしている。
しかし教会に向けた刃は、同時に自分自身を傷つけていきます。
4人の記者たちは今でこそ熱心な信者ではないまでも、それなりに地域の教会に対し何の疑いも持たずにーー目の前の神父が子供に性的虐待をはたらいているかもしれないなんて思いもせずにーー関わってきた人たち。
こんなにも多くの神父が、人知れず子ども達を傷つけているかもしれない。それを知ってしまい、疑いの目を向けてしまうと、もうこれまでのように教会に対して思いを寄せることはできなくなります。
教会によろこんで毎週通っていた、幼少期の自分。
今でも熱心に教会に通い、それが生活の一部となっている自分の家族。
これまでも時々検挙される聖職者による児童虐待の事件は報道してきたのに、それにたいして関心を持たずにきてしまった自分。
教会の疑惑に踏み込めば踏み込むほどに、無垢に教会を信じていた「かつての自分」「幼少期から養われた素朴な信仰心」が静かに傷ついていきます。
思えば、何かの「非を責める」こと、「糾弾する」ことは常に、相手だけでなく「己への刃」でもあるのかもしれません。
善or悪で言えば相手はまちがいなく「悪」だとして、しかしその「悪」に自分は加担していなかっただろうか。黙認していなかっただろうか。その「悪」が生まれたことに、自分は一切責任がないと言い切れるだろうか。
後輩が仕事で失敗したのを責める時、その言葉の刃は自分自身を傷つけていないか。その失敗に対して、自分ができることはなかったのか。事前に気づくことはできなかったのか。いま責めている後輩は、かつての自分ではなかったか。
政治に対する不平不満を言う自分は、政治に対して何をしたか。いまの政党を選んでしまった自分、他政党を応援しきれなかった自分、政治に無関心を決め込んでいた自分もその非難の対象ではないのか。
他者の非を指摘し、改めることは、私たちの文化・文明の発展のために確実に必要なことです。「そういうお前はどうなんだ」という反論を恐れてみんなが口を噤んでしまっては、ものごとは発展しない。
しかし、非を責めたり、非難するのは、安全地帯に身を潜めて、気軽にポンとする行為であってはならないと思うのです。そこには葛藤や自戒がなければならない。自らの身を切りながら、それでも今後傷つく人や悲しむ人が出ないために、勇気を持って踏み出すものでなければならい。
上下関係が明確な日本社会において、上の人が下の人を叱ったり責めたりするのは容易です。さらにSNSが発達して、立場によらず他人に怒りをぶつけたり傷つけることが容易になりました。今日もどこかで炎上が起こり、クソリプが蔓延しています。
しかし、その全てが真に受ける価値があるものとは限らない。自分にも刃が向くことを覚悟した上で抜いた刀にのみ意味がある。それ以外の刀で人を切ることはできないし、そんな軽い刀を向けられた人も、気にしなくていい。
逆にこちらも、日々の生活で気に入らないものをこきおろしたり愚痴ったりするのは簡単ですが、それを言う時、自分自身をも鏡に映して見てみる必要があります。
「スポットライト」チームが輝かしいのは、悪を懲らしめる正義の味方だからではない。彼らの行動によってどれだけの身近な人が傷つくか、己自身が傷つくか、そこへの想像と葛藤を乗り越えてなおペンを握ったからなのです。
これは氷山の一角である。戦うのは「彼ら」だけではない
「スポットライト」には、基本的に「この人が加害者神父ですよ」という人物は登場しませんが、一人だけ、観客の前に姿を表す人物がいます。
虐待を行ってきた神父の中で、サーシャがダメ元で自宅に突撃したとある神父は、意外にもあっさりと玄関先で取材に応じてくれる。そしてこれまたあっさりと、子どもにいたずらしていたことを認める。あまりにも悪びれない様子に、サーシャの方が面食らってしまうほど。
そしてその神父は「いたずらはしたけど快感は得ていない、だからこれは断じてレイプではない。自分がレイプされたからわかる」とこれまたあっさり打ち明けます。彼の歪んだ家族関係がそのレイプと関係しているのかも、と匂わせるような描写も…。
また、聖職者の虐待の研究者が「加害者の神父は性観念が12〜3歳で止まっている」と明かすシーンもあります。
聖職者という特殊な職業環境がそうするのか、そうなった結果として聖職者の道を選ぶのか、それともこれが聖職者だけに限った話ではないのか、そこまではわかりません。
ただ、これは加害者を断罪すれば済むだけの話ではないということを語っています。
加害者を生むなんらかのシステム、環境があり、それがあり続ける限り加害者は生まれる。
ここに登場した神父は、彼自身、傷ついていたのです。
彼の救われなかった、手当てを受けなかった傷が、新たな被害を生んでしまった。救済が必要だったのは虐待を受けた子ども達だけでなく、かつて虐待を受けた子どもだった加害者自身でもあったのです。
彼には、責められるべき非があります。けれど、やったことを責めたところで、彼の癒えない傷は彼の中にあり続ける。彼は膿んでしまったその傷を、心の中で泣いている自分を持て余し続けるでしょう。どれだけ「悪いことをしちゃいけないんだ」と諭しても、「それを実際にされた自分」は行き場を失ったまま居続けるでしょう。
「スポットライト」の記者達は、他の人ならばためらうような調査報道をやり遂げ、大きな功績を残しました。
しかし、それで終わりではありません。
まだ世界のどこかに、救いを必要とする人はいて、戦わなければいけない闇はある。
それは報道記者だけではなく、神に選ばれたヒーローだけではなく、普通に仕事をする普通の人たちが、勇気を持って、ペンを握って、それに立ち向かい続けること。
それこそが、人類に課せられた永遠の試練なのかもしれません。
以上「スポットライト 世紀のスクープ」の感想でした。
こちらの作品は現在、huluで配信中です。ぜひ。
※10/21追記…最後に書いたような話を、思えば以前にもしていました。
ちなみにアカデミー賞6冠の「マッド・マックス 怒りのデス・ロード」はこちら。
シリーズ見てなくても楽しめました。
個人的にお気に入りは、崖のところの門を陣取ってるバイク集団。
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