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【書籍】自分を許すために - 「サラバ!」西加奈子

「魂の救済」ほど、書くことに意義のあるテーマはないと思う。

 

モノを書く人間として(というにはあまりにもアマチュアすぎておこがましいのだけど…)、これほど書きたいテーマはないし、書くことが難しいものもない。

それは「自分が生きることの意味」をそのまま語るのに等しい行為であるからだし、自分がいま生きていること、生きられていることが何によってかという、自分と自分を取り巻くすべてに対する感謝や祝福や尊敬や畏敬を、文字なり絵なり何かしらの手段で表現することに他ならないからだ。一生かけて、すべての人たちに自分の日々の行為でなんとか返していくべき恩恵について限られた文字数でまとめ上げるなんてことは、いまの自分にできうる気がしない。

 

しかし、それをやってのけた人がこの世にいる。

 

サラバ! 上 (小学館文庫)

サラバ! 上 (小学館文庫)

 

 

物語は、主人公の男性「圷 歩」の視点で語られる、彼の幼少期から30代後半までの半生である。

イランで生まれ、父の転勤で家族でカイロに住み、小学校からは帰国して日本で暮らす歩。彼は、僧侶みたいに穏やかな父と、「母」であることより「女」であることを優先するタイプの母、そして愛されたい願望が強すぎるあまりすぐに奇行に走り社会に溶け込めない姉、という4人家族の一員として生まれ、一家のギクシャクしたバランスの中でなんとか自分だけはまともに生きようとする。

必要に応じて気配を消したり、揉め事が起こっている時には自分にとばっちりが来ないよう我関せずの位置に逃げ込んだり、クラスの楽しいグループに自然に溶け込んだり。イケメンに生まれたことのアドバンテージを活用しながら、カイロという未知の国を、面倒ごとの多い日本社会を、苦難の多い圷家の家庭を、彼は華麗に渡り歩いていく。

 

はっきり言って、文庫版の上・中巻を読んだところまでは、私はこの物語にそこまで引き込まれてはいなかった。

言葉のつなぎ方は気持ちがいいのでスラスラと読み進めてはいけるが、「この先の展開が気になって仕方がない!」というような物語に対する渇望感はほとんどない。ただ、とある男の人の、その年 相応の生活が、つらつらと続いていくだけである。もちろんライフステージに応じた成長はあるし、そこで語られる内容は「あー、この年齢の頃ってそうだったなー」と共感はするし、圷家の状況は刻一刻と変わって落ち着く暇もないのだけど、私の中では「読みやすいけど、いつでも読むのをやめられる小説」だった。

 

それがガラリと覆されたのが、下巻である。

まず、(一応は)順風満帆だった主人公の人生が、一気に狂い始める。

彼が半生かけて身につけた処世術と生まれ持ったイケメンによってうまくいっていた種々のことが、何もうまくいかなくなり、どんどん闇の深みへとはまっていってしまう。すると不思議と、彼よりもずっとうまくいっていなかったはずの人たちの人生はうまくいき始める(彼の目にはそう見え始める)。

自分は何をしてきていたんだろう。自分には何があるんだろう。

自分は悪くない、自分は間違った選択はしてきていない。

それなのに、自分は今、こんなにも救われていない。

 

そんな彼が、闇からいかにして脱出するのか。

ずっと救われたいと願っていた彼の魂が…そんな自分の願いにすら気づかないまま生きてきていた彼のひっそりとした魂が、救われる瞬間は何だったのか。

 

魂が救われる、ということ。

それは、自分を許して、受け容れて、愛することができるようになることである。

そして自分を受け容れること・愛するということはすなわち、今の自分を構成するすべてのものを受け容れ、愛せるようになるということである。

それは家族であり、友人であり、同僚であり、知人たちであり、過去のすべての出会いと別れ、かけてきた時間、自分が生きている間に世の中で起こったすべてのこと、そして自分が生まれる前に「いま」を構成するために存在したすべての過去。

私はキリスト教ではないけれど、キリスト教の教えにある「隣人を自分のように愛しなさい」というのはこういうことなのではないかと、門外漢ながらに考えている。

 

人類が何のために生きるのかというと、それは種を保存するためである。人類を滅ぼさないために人は生まれ、死んでいく。

しかし、「ある一人の人間」がどこへ向かって生きていけばいいかというと、それは自分の魂を救うこと、そして救われた魂をもってその他の魂と接すること、それに尽きるのではないかと思う。

それくらい、魂が救われるということは人の生き様に大きな変化をもたらす、と思う。

 

端的に言えばそれは「宗教」である。

何千年、何万年と続く宗教には、どうすれば魂が救われるのかについてのノウハウが膨大に蓄積されている。それゆえに、大きな宗教に多くの人が帰依して、そして宗教が多くの人を救うという実績を積んでいるのだと思う。

しかし「サラバ!」の主人公がそうであったように、必ずしも既存宗教によってのみ人は救われるわけではない。

ある時、ふと、魂が救われる瞬間がくる、そういうこともあるのだ。

 

運命の人との出会いがそうかもしれないし、天職に就くことがそうかもしれない。ロックバンドの演奏に雷に打たれたような心地になる人もいるし、名画に感銘を受ける人もいる。誰かのポロリとこぼした一言に、人生すべてを報われる人もいるかもしれない。その瞬間がどんな形でくるのかは人それぞれだし、それを何と名付けるのかも人それぞれだ。

それに出会った時、心は穏やかになり、頭上は晴れ渡り、この先の人生でどんな苦難があっても何とかなる気がする、そういう全能感に溢れる。

…言葉にすると、こんなに気色悪い状態はない。イタい。イタすぎる。でも、そうなのだ。それを経験した人にはわかる。「それ」が自分に訪れた時、今までの自分とは全然違う自分がいるのだ。

 

サラバ!」は、主人公だけではない、そこに登場するすべての人が、魂を救われるまでの過程を描いた物語である。エキセントリックな姉も、不安定な母も、何を考えてるかよくわからない父も、それぞれに闇を抱えた友人たちも。

何しろ私も、わりかし日本社会で生きづらい方だと感じながら生きてきた(そうじゃなかったらこんなにバンバン海外旅行に行ったりしない)。ようやく自分の人生に自信が持てるようになってきたのはここ数年のことで、まさにこの小説に登場する主人公や、姉や、母や、父が辿ったのと同じように、回り道をしたし、しんどい思いもしたし、周りにしんどい思いをさせたりもした。

 

でもある時、ふと「それ」は訪れる。

私にとっての「それ」は、いつ、どこの何だったのかは、はっきりとは覚えていない。なので記述するのは難しいのだけど、ただ「それ」が自分に来たことはわかる。

 

あまりスピリチュアルなことを書くのは胡散臭くて好きではないのだけど、でも、こういうことってあるのだ。

こういうことってあるんだよ、ってことを、西加奈子さんは物語を通じて書き記してくれた。

きっと「それ」を知っている人は、わかると思う。

「何だかよくわかんないなぁ」って人は、とりあえず、今は(今だけでなく、過去にもこの先にも)しんどいことはいろいろあるかもしれないけど、全部まるっと報われる瞬間てのがあるから、一旦 諦めずに生きてみて、と思う。

 

こんなことを書くのってあまりにも恥ずかしいから、架空の物語に託したかったのに、この小説にまんまとむき出しにされてしまった。ひとまず、上巻で「もういいかな」って思いかけたのに中下巻も買った自分を褒めてあげたいし、そのきっかけになった「アメトーーク 読書芸人」での光浦さんに感謝を述べたい。

 

  

 

 

 

 

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