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【雑記】スマホに殺される味覚と、オジサンの物思い

午前の用事を済ませて、家で昼食を食べるつもりが、入ったことのない讃岐うどんの店に出会ってしまった。

10年くらい前は讃岐うどんブームだったと思う。映画UDONが公開されたのは2006年。その前後で、関西にも讃岐うどんの店が次々現れた。店自体は前から存在してたのかもしれないが、私の前に現れ始めた。(好きに外食できるようになったライフステージと重なってただけなのかもしれないけど。)

噛んでると顎が疲れてくるようなガッチガチのコシのうどん屋を見つけては、顎が痛いと喜びながらうどんを啜ったものだ。

 

しかし最近はその讃岐うどんブームも落ち着き、おおむね讃岐うどん需要は丸亀製麺へと集約され、個人営業の讃岐うどん屋が店主の高齢とも重なってかどんどん減ってしまった。

 

そんな中で「讃岐うどん専門店」を掲げる店に出会ったので、入らないわけにはいかなかった。

 

サラリーマンの多いランチタイムで、必然的に一人客の私はカウンターに通される。

本当はとり天が食べたかったのだけど、讃岐うどん屋に来るとちく天を頼まなければいけないという強迫観念に負けてちく玉天ぶっかけに着地。

 

注文を済ませてふと周囲を見ると、隣は若いサラリーマンらしき男性が、一心不乱にスマホの画面を見ながらうどんとご飯のセットをかっこんでいる。スマホ画面への目の吸い寄せられようがハンパではない。

 

私も例外ではないのだが、1人で食事をする若い人のスマホ画面から一切目を離さずに食事する」行為は、きっと人類学・生物学的な歴史の分岐点となる変化を人間にもたらすのではないかと思っている。

 

言うまでもなく、人間の情報源の多くは視覚からである。

食事とて例外ではなく、人は視覚情報から「赤いものは辛そうだな」とか「この生野菜はカピカピに乾燥しているな」とか「さっきの一口よりも今の一口はふりかけが多くかかってるから味が濃いぞ」とか考えるわけである。

しかしスマホがあると、なまじテレビよりも手元に近い距離で見れるだけに「スマホ画面を見てる自分の視界のすみっこに映り込んでくる食事」の情報だけで食べる行為は滞りなく進められる。自分が今何をどれくらい口に入れているか見なくても、自分が注文した商品に含まれる食材の味の幅の中に落ち着いてくれるのでなんの問題もないわけだ。

スマホの世界は無限大だ。いま自分がブログを見ている間に、Yahoo!ニュースには重大な事件がアップされているかもしれない。自分がグノシーの記事を見ている間に、競合は最新トレンドを把握して次のマーケティングプランを検討し始めているかもしれない。現代に生きるサラリーマンは、情報を得ても得ても追いつかないのだ。

 

しかしその間に、彼は自分が今食べている食事の情報を最小限に削ぎ落としている。

こういったインプット情報の偏りが、いずれ「視覚情報から味を想像できない人間」を生むのではないかとひそかに案じている。

昔ホットコーヒーをこぼして火傷したおばあちゃんがマクドナルドを訴えて勝訴していたが、ああいう「まさかこんな中身だと思わなかった」という訴えが増えると店側も大変だ。

ちなみにあくまでまだ仮説だが、料理オンチな人というのは、普段食べ物を食べながらそれを観察する習慣がないのではないかと思っている。誰か立証してくれないものか。

 

とかなんとか考えながらさらに向こうの席に目を向けると、これまたサラリーマンのオジサンがカウンターに手を組んでじーっと注文の品を待っている。

そう、オジサンには、オーダー待ちの暇つぶしにスマホを触るという選択肢がないのだ。

たぶん昔はこの時間をタバコが埋めていたんだろうと思う。アメトーークの「タバコ芸人」でも、禁煙すると手持ち無沙汰感がつらいという話をしていた。タバコを吸ってればいったん「やることがない人」ではなくなる。

しかしすっかり世の中は禁煙化に向かい、ランチタイムに喫煙できるチャンスはすっかり減ったようだ。

やることはない。注文は来ない。

でもスマホや携帯には用事はない。

そんなオジサンは、ただ静かに座って物思いにふけっているように見えた。

 

それが無駄な待ち時間ではなく、充実した物思いタイムとして感じられていればいいな、と思う。余計なお世話だけど。

 

 

ちなみにその讃岐うどん屋もやはりコシは弱かった。

 

 

 

UDON

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