小説
私が警察署の横を通り過ぎたところで、ニャア、と声を掛けられました。 見ると、灰色いふさふさとした毛並みのたわしのような猫が、両足をそろえてこちらを見ているのであります。 「サアサ、一寸寄ッテイラッシャイナ。私ノ御話ヲ聞イテオ行キ」 私は思わず…
「その木があるだろう」 老人は、たいそう背の高い、葉をわさわさとつけた木を目で差しました。 少年もそれに倣って目をやると、その木はすらりと細いけれども、枝のてっぺんは隣のアパアトの屋根よりも高く、寒さにすこし黒ずんだ葉はひとつも散らずに残っ…
笑い売りは、なぜだかいつも泣いている。 他のみんなが笑えるように、 自分が代わりに泣いている。 ある日、まちの路地裏で 近所のいたずら少年が そこらの野良犬怒らせて、 追いかけられて泣いていた。 そこへ笑い売りが来て、 犬におしりをガブリとやられ …
この気持ちは、なんなのだろう。 わたしの中で混沌と渦巻き 胸の奥の真空管から 突き上げる、この気持ちは。 それは愛情であり、憎悪である。 それは幸福であり、絶望である。 だれかに 会いたくてたまらないと 同時に、みんな消えればいいと思う。 他愛ない…
一瞬、泣いているのかと思った。カーテンの隙間から差し込む細い光が、彼女の頬を青白く光らせていたのだ。 「こどものころ」彼女はおもむろに言った。「ピノキオの話がだいきらいだった。良い子にしていたご褒美に人間にしてあげます、なんて。人間が一番い…
ぱらり、ぱらり 開く花は 濃い輪郭の残り香を置いて ぽろり、ぽろり 降り落ちる星は 消えてもなお 脳裏を焦がして ずるり、ずるり まどろむわたしは 願わくは かのゆめを 願わくは かのゆめを
其の人はがくりと頭を垂れました。白い涙がはたはたと、灰色い袖に降り落ちるのを、わたしはぼうと眺めて居りました。 「私には如何しても。如何しても、殺せなかつたので御座います」 其の人は、其の力を以つてすれば容易く首のひとつも折れたであらふと 思…
わたしは部屋のカーテンを端まで勢いよく開けた。刺すような白い日差しが部屋で踊り出す。まあこの名前を呼ぶと、彼女はベッドの中でゆっくりと瞼をあげた。寝ているわけではなかったようだ。それとも、とても浅い眠りの中にいたのか。 「朝ごはん。食べられ…
「おまえ、鳥の死骸って見たことあるか?」Tは身を乗り出して、声を低くした。誰も知らない宝物の場所をこっそり話すような口ぶりだ。 ぼくは首を振った。それを見てTは、やはりというようににかっと笑い、身体を少しぼくのほうへずらした。 Tは誰にも聞…
わたしの 気づかぬうちに 蚊が おしりを刺してゆきました よたりよたりと水辺へ飛んで その蚊は卵を産むでしょう わたしの血と ひきかえに 彼女の命と ひきかえに わたしの 知らないうちに ぽろりぽろりと その蚊は いのちを落とすでしょう
少年は迷っていた。今後彼はどうすべきだろうか。いや、何もしない方がよいのだろうか。おそらくは、その方がよいのだろう。何も知らなかった振りをして、それまで通りの、平凡な日常を反復する方が。 少年はどちらかといえば、さほど目立たない部類の人間で…
Walking along the silent road makes me feel tender and wet The world of sunlight bright and gold Won't you tie 'em with a thread Walking along the narrow road he keeps singing in my head Never come back till I am told Won't you sing that i…
サイトに載せるほどでもなかったので。
「みぎ」さんは、右側しかありません。 右足で歩き、右手で食べ、右目で見て右耳で聞きます。 「みぎ」さんは、右だけで一人でした。 あるとき「みぎ」さんは、左側だけの「ひだり」さんに出会いました。 『わたしの左側になってください』 「みぎ」さんは言…
実家の庭の桜の木は、狂い咲きの名人だ。 これといった手入れもせずに、ただそこに何年も生やしているだけのそれは、枝が好き勝手に伸び放題で、それでも自由な曲線は芸術的ともいえるほど大胆で、素朴で、美しかった。(「自然なままが一番美しいに決まって…
3 声真似男がおりました。 愛する女がおりました。 その女には彼とは別に 愛する男がおりました。 ある雨の朝 女の庭で 女のカーテンの開く前に 男は陽気な小鳥の声で 高らかにさえずって見せました。 傘もささずに立っていて びしょぬれだった声真似男は …
2声真似男がおりました。 愛する女がおりました。 女には彼とは別に 愛する男がおりました。 声真似男は女の声で 毎日自分を呼びました。 高い声を出しすぎたあまり のどが切れて死にました。
1声真似男がおりました。 愛する女がおりました。 女には彼とは別に 愛する男がおりました。 ある日 声真似男は女に電話し 彼女の意中の男の声で 「愛しているよ」と告げました。「愛しているわ」と返ってきました。声真似男はせつなくなって 涙になって消…
あの人は、会うと必ずチョコレートをくれた。 ひとつひとつ包装された、まんまるいチョコレートだった。 彼は別れるときに必ずそれをどこからか取り出してわたしの手に握らせる。わたしは彼との時間の終わりを惜しむ代わりに、それを口へそっと入れて、甘く…
一日中大型車が行き交う国道を渡るには、横断歩道の信号を二つか三つ見過ごさなければいけなかった。朝の時間は信号が短かったし、自宅から一番近い横断歩道までは200メートルはあった。急いでいる日は車の波が途切れた隙を見計らって、ガードレールを越える…
子供の頃は広かった庭は、すっかり狭くなってしまった。バスを降りて、のろりのろりと坂をあがる。 風は肌で感じないほどゆるく、道路わきに植えられた木々のてっぺんの方を、ほんの少しふるわせるだけだ(もしかしたらそれも、小鳥や虫がゆすっているのかも…
バスから降りると、粘着性のある風が木々の枝を揺らし、擦れあう葉がざわざわと話しだすのでした。 「雨が降るよ」「もうすぐ雨が降るよ」 「雨雲が、こちらに押し寄せているって。北の山の森が言っていたもの」 「風に運ばれて、聞こえてきたもの」 それを…
わたしは暇だった。まさか看板持ちという仕事が、ここまで暇なものだとは思わなかった。いや、正確に言えば、看板すら持っていなかった。ただ交差点に向かって歩道の角に腰掛けているだけの行為が、ここまで暇なものだとは思わなかった。 朝から休みなく降り…