旅するトナカイ

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狂い咲き

実家の庭の桜の木は、狂い咲きの名人だ。
これといった手入れもせずに、ただそこに何年も生やしているだけのそれは、枝が好き勝手に伸び放題で、それでも自由な曲線は芸術的ともいえるほど大胆で、素朴で、美しかった。(「自然なままが一番美しいに決まっているよ」とそこの主人が言っていた。「自然の姿をきれいだと感じるように、人間の目はできてんだから」今となっては、その半分はろくに世話をしない言い訳だったのだろう。)
わたしは毎年この時期になると、桜の木を見に実家に帰る。けれどもう何年も、花をつけた姿を拝んでいない。すでに散ってしまっているか、冬の寂しい裸姿のままのどちらかだ。
「どうしてうちの桜だけ、毎年狂い咲きになるのかしら」
縁側でお茶をすすりながら一度、ぽつりと親戚にこぼしたことがある。淹れてもらった緑茶を、まだ苦く感じていた年の頃だ。
「きっとねえ、わたしのせいなのよ」
彼女は目尻にしわを寄せた。
彼女の姉は肺がんで亡くなった。彼女がまだ幼い頃だった。苦しい最期だったけれど、それでも医学の予想よりはずっと長生きしたのだという。
「桜を見てから死にたい」治らないと知ってから姉が言った言葉が、強く彼女の胸に打ち付けられた。
「それから毎年、年が明けるとねえ、桜の木の前で手を合わせたんだ」
早く咲いてくれ、死ぬ前に姉に花を見せてくれ、そう祈る日もあった。けれど次の日には、どうか咲かないでくれ、と祈るときもあった。桜を見たら姉はきっといってしまう、それならずっと咲かないで、姉をずっと生きさせてくれ、と。
「日ごとに変わるわたしのお願いのせいでね、きっと、混乱してしまったのよ」
冗談ながら、彼女自身、半分それを信じている風だった。幼かったわたしはその話をすっかり信じ込んで、苦かった緑茶がいっそう苦く感じたのだった。
その姉が結局桜を見られたのかどうか、なんとなくわたしは、未だに訊けないままでいる。