旅するトナカイ

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ラン

玄関先での不測の出来事に対する第一の反応として、人はとりあえず階を間違えたのではないかと確認するものらしいと、そのとき私は学んだ。私は部屋番号を確認し、ネームプレートの名字を見て、やはり自分の玄関に違いなく、次に考えたのはこの花はどこから来たのだろう、ということだった。


保と出会ったのも、暖かい季節だった。
ただのクラスメイトだった頃の私たちは、ゆっくりと時間をかけて距離を縮めた。それが恋愛になる前の私は、彼の目尻に皺をつくる笑い方と白い大きな葉がとても魅力的だと思っていた。毎日他愛の無い世間話をし、本やCDの貸し借りをした。着る服も食べるものも見る映画や読む小説、何をとっても彼は趣味が良かった。
冬も半ばに入った頃、私が友人と食事していた店に、たまたま彼も居合わせた。友人を店先で見送った私のところへ、会計をすませた彼が近寄ってきて言った。
「家まで送ろうか」
当然のように他人のために自分を使える彼の気遣いはずっと以前から知っていたはずなのに、なぜか、彼の暖房の効いた車の中が、この世界中どこを探したってないほど暖かく感じられたのを覚えている。


私たちが恋人という関係にあったのは、ほんの1ヶ月の間だ。
保は私とは違う女の子のところへ行ってしまった。人伝いに聞いた話では、今まで住んでいた家を引き払って彼女と同棲しているらしい。彼女の顔を私は知らない。
私は、魂の抜けたただの人の形をした容器になってしまった。残酷にも日々は過ぎてゆくので、置いて行かれないように人並みの生活を送りはしたが、世界はまるで舞台の上で繰り広げられる戯曲のように目に映った。私だけが観客席にいて、柔らかい椅子の中でそれを見ている。胸の辺りに、大きな空洞ができた気分。真っ黒で、ずしりと重い穴。それがあまりにも大きくて、私は泣くことも吐くことも忘れてしまった。いくら涙を流しても、いくら考えても、何も変わらないということだけ、私はよく分かっていた。
要するに、早い話が、彼にとって私は、一時の気の迷いだった。でも私にとって彼は、ほんとうの、本気だった。


このままでは腐ってしまう。
どうにかしなくては。
そう思ったのは、母が焼いた私の大好物のアップルパイに、何の感動も湧かなかったときだ。いつもなら何枚でもおかわりするのに、その日はただものを口に詰め込んでいるという感覚しかなかった。
ああ、私、相当危ないわ。


保が意識の隅にも入る余地のないくらい没頭できるものを見つけようと、私は家の中をぐるりと見回した。母と二人暮らしのマンションは狭く、大したものは何もなかったけれど、その中で最も手近なものとして私が選んだのは料理だった。
引き出しの奥からレシピ本を引っ張り出して、美味しそうだと思ったものから順に作っていった。それまでろくに料理をしてこなかった私は、野菜の皮を剥くだけでも驚くほどの時間が過ぎた。それが私には良かった。それだけ長く、余計なことを考えない時間が増えるのだから。
いくらレシピ通りに作っても、なかなかいつも食べている「母の味」にならず、その失敗が私を燃やした。毎日食べていた味なのだから、再現できないはずがない。私は母のアドバイスを受けながら、何度も同じメニューを試した。昼に働いて夜くたくたになって帰る母は、私のこの新しい「日課」(そう、それはまさに「日」に「課す」ものだった)をとても喜んだ。
1カ月が経つ頃には、私は自分の作った肉じゃがを「ああ、この味だ」と思えるほどになった。


その夜はロールキャベツを作った。
コンロの上の鍋の中で、スープがぐるぐると踊り、春の緑色のキャベツにしみ込んでゆくのを眺めていた時、母から「今夜は帰れない」と電話があった。同僚の送別会で、朝まで飲み明かすのだそうだ。
ただでさえ多めに作ってしまったロールキャベツが、鍋に所狭しと詰まっているのを私は無言で見詰めた。仕方がない。お隣さんにおすそわけ、といこう。
私にとっては人生初の「お隣さんへおすそわけ」だ。高揚感を胸に、私はロールキャベツの半分をタッパーに移し、紙袋に入れてドアを開けた。
隣には「白井」という女性が住んでいた。私よりももう3倍くらい長く生きている、落ち着いた女性だ。私は彼女を見たことはなかったけれど、母はその人と親しくしているらしい。そうとあらば、娘の私がおかずを届けても変には思われないだろう。


チャイムを押すと暫くして、ドアの奥から「はい」と高い声がくぐもって聞こえる。ドアに向けて私が名乗る。返事と共に静かに鍵の開く音がし、ゆっくりと扉が開く。
その向こうには、眼鏡をかけた、背が低い色白の初老の女性がいた。顔には生きた年数分の皺が刻まれているけれど、髪はきちんと整えられ、肌もつんと張っていて身体には無駄な肉が付いていない。姿勢も良く、指先までぴんと針金が通っているようだった。花柄の黒いワンピースがとても上品だった。
「よろしければ、これ、作りすぎてしまったんです。ロールキャベツです」
「あら、まあ」
「白井さん」は驚いたようだったがすぐに表情を崩し、小さいけれど真ん丸な目をくるりと開いた。とても愛嬌のある表情だ。
「ありがとうございます。是非いただきますわ」
「お口に合うか分かりませんが…」
「いいえ。ちょうど、暖かくなったのでキャベツが食べたいと思っていたの」
彼女が笑った時、唇に薄く紅が引かれていることに気づいた。とてもやわらかく、暖かい笑みだ。
私から紙袋を受け取る彼女のしぐさは、全てに無駄がなく整っていて美しかった。パーカーにジーンズという自分の格好が恥ずかしくなった私は、早々に自分の部屋に戻った。ロールキャベツはといえば、人に出して恥ずかしくないほどの出来だった。


次の朝、母が電話口で「夜はシチューが食べたい」と言うので、私はスーパーまで具を買いに行った。今夜は固形のルウを使わない、本格的なシチューにしよう。
あまりにも日差しが暖かかったので、ついでにアイスクリームを一つ買い、途中の公園でそれを舐める。腐るようなものは買っていなかった。
犬の散歩をする老人がゆっくりと歩くのを眺めてから、私はマンションへ向かい階段を上がる。その時、私が何を考えながら歩いていたのか、今はもう覚えていない。
家の前に来て、私は足を止めた。玄関先に、立派な花が置いてあったのだ。
ドアを確認するとそこは間違いなく自分の部屋だった。でも私は何年もこの家に住んできて、ドアの前に鉢植えの花が置いてあったことは一度もない。
それはお店のオープン記念に飾るような、大きなランの花だった。2本の首を美しい放物線を描いて垂らし、見方によっては動物の顔になりそうな白と紫の分厚い花が4つずつついている。鉢にはピンク色のリボンが巻かれ、タグに私の名前が整った字で書いてある。
私はあたりを見回したが、昼下がりの住宅街のマンションには人影はなくひっそりとしていた。どこかの部屋から、ワイドショーの音がわずかに漏れている。
一体、と私は思った。でもそれは口には出なかったし、それに応える声もどこからも聞こえない。
暖かい季節だった。
ビニール袋の中の玉ねぎの匂いに混じって、甘い花の香りが鼻先まで届いた。