田中太郎少年は、判断を下しかねていた。
これは千載一遇のチャンスだ、と思った。いや、チャンスなどではない。必然的に、運命的に、なるべくしてなったことなのだ。よって少年がどのような道を選択しようと、必ず起こり、そして避けられないことなのだ。自分が乗るべき船の切符を持っていて、その船が定刻通りに来て、それに乗らないことがあるだろうか。しかし一方では、これは罠だ、この出来すぎた話を信じて有頂天になっていると時期に足元を掬われる、そう警鐘を鳴らす自分の理性的な片割れもいた。
どちらを信じるべきなのだろう。まだ人生経験の浅く未来の長い太郎少年には、重い選択だった。
いっそ中退してしまうか、それとも、意を決して彼女と親密になるか。二つに一つだ。
田中太郎少年は、山本夢子と結婚するのだと信じていた。
世の中に少なくとも数人は存在する「山本夢子」のうち、どの女性と結婚するのかは分からなかったが、少なくとも彼はその「名前」に運命を感じていた。
もしも自分が相手を、相手が自分を、引き寄せるような名前があるのだとしたら、それは間違いなく山本夢子であった。
田中太郎少年は、風変わりな父親を持っていた。
父親は、名刺を集めるのが趣味だった。実際に会った人物や訪れた店であれそうでなかれ、彼はとにかく名刺と名のつくものを収集していた。どんな浅い関係の人間とも名刺を交換したし、店に入れば並んでいる他店の名刺を全種類鞄に入れた。集めた名刺は、綺麗にファイリングされ、たんすの中にずらりと並んでいた。妻はその奇妙な収集癖が、夫がかつてデザイナーを志して挫折したことに起因するのだと決めつけていた。
太郎少年は、父親のその特性を受け継いだ。彼は、人の名前を集めることを趣味としていた。クラスメイトや学校の教師はもちろん、店員のネームプレートの名前や読んだ本の著者など、目にした日本人の名前をすべてノートに書き連ね、休日にはそれをうっとりと眺めるのであった。
そうして人名を集めているうちに、少年はいくつかのことに気が付いた。世の中には、意外と漢字三文字の名前が多いということ。姓が一文字、名が三文字のばあい、区切りがすぐには見分けられないこと。平凡な姓と平凡な名の自分と同姓同名の人間には、予想に反して一人も出会っていないということ。
そして何よりも重大な発見は、「山本夢子」という名前が、ノートにたびたび現れているということだ。
おそらく自分はこの名前に何かの縁があるのだろう、と少年は推察した。その名前を見ても、具体的に浮かんでくる顔はないので、おそらくはレシートに書かれたレジの店員の名前だとか、雑誌の編集者の名前だったのだろう。
しかしもしも、自分の近くに山本夢子を名乗る女性が現れたとしたら。いや、もしもではなく、必ず、その時が来るだろう。自分が出会うべき山本夢子と出会い、彼女と結ばれる時が。
少年は夜眠る前に、目を閉じて何度もその名を呼んだ。夢子、夢子。それは他のどんな言葉よりも美しい旋律を奏でるように思われた。
田中太郎少年は、高校生になった。
高校に入ってからというもの、彼は読書しかしていない。クラスメイト達は下らない話を面白おかしく話したり、毎日部活に明けくれたりしていたが、太郎少年はいつも机を俯いて、授業中は熱心にノートをとり、休み時間には読書をしていた。決して顔を挙げることはせず、最小限にしか人と話さなかった。
中学校までの彼を知っている人間はそんな彼を訝しがった。それまでの彼は人づきあいも良い方で、決して暗くて無口な性格ではなかったからだ。しかし彼は、そうせざるを得なかった。そのような演技を今後、永遠にとは言わないまでも長期的に、続けなければならないであろうことを、彼は高校入学のその日に悟ったのだ。
入学式の日、クラスの名簿が発表された。その中に彼は驚くべきものを発見した。「山本夢子」がいたのである。
その名前は名簿の最後に、凛としたたたずまいで、光線を放つかのようにして座っていた。彼はその名前から目が離せなかった。人生の十五年目にして、彼は運命の女性と出会ってしまったのだ。
山本夢子の名を目にした太郎少年は、喜ぶよりも先に恐怖した。いったいその山本夢子がどのような女性なのか、確かめるのが怖かったのだ。彼女が絶世の美女であれ、化け物のような人間であれ、彼は彼女と結ばれる運命にあるのである。たとえ山本夢子に絶望したとしても、彼は彼女と愛し合わなければならないだろう。運命で、そう決まっているからだ。
太郎少年は、夢子がどのような人間かを確認することを少しでも遅くしようと、学校ではずっと俯いていた。教室に響く夢子の声は聞かないようにした。しかしそのように逃げ回っていても、意味がないことは、少年にも分かっていた。
田中太郎少年には、二つの道しかなかった。
山本夢子と結ばれるか、それとも、この夢子から逃げ、別の山本夢子を待つのか、である。
「ねえ、田中君」
目の前から高い声が飛んできて、太郎少年は思わずびくんと身体を跳ねた。
「何読んでるの」
自分の席の前に座った少女の声には、聞きおぼえがあった。自分が常に意識してきた、その声と同じものに聞こえた。まさか。いや、でも、もしかしたら。
かちん。音を立てて、田中太郎少年の運命の歯車は、回り始めるのだ。