店の同僚は、決まって彼を笑った。
彼の甘美なまでの素晴らしさを知っているのは、Rだけだった。
もう彼が店に顔を見せなくなって、半年近くが経つだろうか。週に一度必ずRに会いに来た彼だったので、もう永遠に顔を見ることはないのではないかと、Rはぼやけた想像をしていた。
「こいつに女を教えてやってくれ」と、常連の男が彼を引きずり込んだのだ。
その男は酒癖の悪さで店中の者から嫌われていたから、当然、彼の連れというだけで敬遠された。仕方なくRが彼についたが、常連の男が連れ込むのも無理がないと思われるほど、彼は女に疎かった。女に、と限定するのは正しくない。人づきあいというものがてんで駄目な男で、他愛のない世間話にもうまく対応できない。無口で、口を開けばどもった。目をせわしなく泳がせるが、決してこちらの眼は見なかった。
Rの同僚たちがとりわけ馬鹿にしたのは、彼の奇妙な癖のことだ。
彼は気分が落ち着かなくなると、ポケットから爪切りを取り出して爪を切った。そうしている間だけは心が休まるらしい、爪を切る彼の姿はごく普通の人間に見えた。ごく普通の人間が、自分の部屋の床で、意識を自由に泳がせながらする爪切りと、何も変わらなかった。
しかしそのお陰で彼の爪はほとんど指に現れていない。深爪という言葉では説明がつかないほど、彼は爪が小さく、指先を丸く肉が覆っていた。
そして、Rが愛したのは他でもない、その爪のない指だったのだ。
テーブルでおしゃべりの真似事をしたところで彼には何の魅力もなかったが、明りのない部屋で触れ合うと、彼は確実に彼女を魅了した。
爪のない彼の指はなによりも優しく柔らかく暖かくRを滑った。
牙のない獣がこれほどまでに耽美だとは、彼女は知らなかった。そしてそれは彼女しか知り得ない感覚だった。
最初は社交辞令で、そのうちには切実な思いで、Rは男に「また来て」と言って別れた。
単純で駆け引きをしらない爪切り男は、馬鹿正直にもそれを信じて毎週必ず店を訪れた。そして必ずRの顔を探した。
彼は酒が飲めなかった。ファジーネーブルだけを注文していた。
彼が姿を見せなくなったことについて、Rはとりわけ淋しく思っているわけではない。もともと彼という人間そのものを愛していたわけではなかったのだ。彼が店に来ないならばそれまで、他の上客を惹きつけた方がずっと見返りが大きい。
けれど、とRは思う。私はこの先どんな男と出会っても、完全に満足することはできなくなってしまったのだ、と。彼ほど素晴らしい指先を知ってしまったからには。