旅するトナカイ

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書棚の少女―後―

それからぼくは、図書館にではなく「D-105」の棚に、通うようになった。
そこで出会った少女は、名前も学年も分からなかったが、よほど本好きなのだろうか、世界中の古い話ばかりを知っていた。「D-105」の棚に収まっている本は全て目を通したらしい。彼女の話を聴いて初めて、ぼくはここが神話や伝説のコーナーであることを知った。
彼女はいつもぼくに、古代よりももっと昔の話を聞かせてくれた。
この宇宙を生み、人間を生み、時に戯れ時に荒れ狂い、そして今も存在する神々の話。


不思議なことに、彼女にはしかし、この場所でしか出会わなかった。
同じ学校の生徒なら、たとえ学年が違ってもどこかで見かけることがありそうなものなのに。とりわけ、彼女の墨のような黒いおかっぱ頭と、ツンとした目は他に類を見なかった。ぼくは彼女から巫女というものを連想した。
何度か彼女について尋ねたことはあったけれど、彼女は神の話以外は何も語らなかった。きっと彼女は、誰もが持っている「覗いてはいけない部屋」が、他の人よりも大きいのだろう。


冬休みの近づく放課後だった。
ぼくは掃除当番から解放されるとすぐさま図書室へ駆け込んだ。
カラカラとドアを閉めると、そこは外の世界から隔絶された異空間になる。静寂の中で、知識や物語たちだけがひっそりと呼吸する、異空間。ぼくはその空気に包まれるのが好きだ。
自習用の机の横を通って棚へと向かうとき、R子を見つけた。数学の勉強をしている。彼女の細くて白い指が、ノートに端正な放物線グラフを描いた。ぼくはそれをばれないように気をつけながら横目に見て、足早にD-105へ向かう。
D-105では、黒髪の少女が分厚い重たそうな本を読んでいた。
ぼくに気付いて彼女はそれを本棚へしまった。
「遅かったのね」彼女はいつもツンとした話し方をする。彼女の笑った顔は見たことがない。巫女のゆえんだ。
「掃除当番だったから」言ってからぼくは、その声がR子に聞こえているんじゃないかと棚の外を伺った。聞こえたからどうだということなんてないのに、R子が同じ室内にいるというだけで息をするのが難しくなる。R子は相変わらず机に向かってグラフを書いていた。


「彼女がすきなのね」
表情ひとつ変えずに巫女の少女が言った。あまりの直球に、ぼくは狼狽した。否定もできなければ弁解も言い訳もできず、言葉にならない声だけが喉を通る。
「顔に書いてあるわ」
「……きみは、すきな人はいないの?」
はぐらかそうと訊き返してみる。
彼女はちらとぼくの顔を見てから、本棚の本の背を撫でた。
「男はいつも禁を破る」
「え?」
イザナギは禁を破って冥界でイザナミの姿を盗み見たために、彼女の醜さを知ることになった。プロメテウスはゼウスの禁を犯したために、毎日鷹に腹を喰われる罰を受けた」
「…訊くなってこと?」
頷く代わりに彼女は本を手にとってページをぱらぱらとやった。いつも彼女はこんな話し方をする。


彼女はその日もまた物語を聞かせてくれた。
日本の国ができるまでの物語。
気兼ねなく話していたはずなのに、不思議と図書委員から注意をされることはなかった。まるでぼくたちの話し声が、2人を挟む重い書棚に吸い込まれるみたいに。逆に棚の外の音も、D-105にはほとんど届かなかった。
唯一ぼくたちの話をかき乱すのは、下校時刻前のチャイムだけだ。この音を聴くとぼくは、夢の中にいたのに突然母さんに部屋のカーテンを開けられた時のような気分になる。ぼくは鞄を手にとった。
「もう会うことはないわね」彼女が不意に言った。
「どうして? 冬休みだって、ぼくはここへ来るけど」
彼女はものも言わずに、書棚の外の柱にある張り紙を指さした。
柱のほうへ行くと、張り紙には『図書室改装による一時閉館のおしらせ』とあった。
今まで毎日ここへきていたのに、気付かなかった。明日から冬休み明けまでは、ここへはもう来られなくなるのだ。
「山田くん?」
声がして驚いて振り向いた。R子だ。
「いたのね、気付かなかった。なにしてたの?」
ぼくは突然、体中の血液が沸騰したみたいな感覚になって、なにも答えられなかった。そこの書棚にいたんだ、と言おうとD-105の棚の方に目を送った。
そこには、黒髪の少女はもういなかった。どこへ行ったのかと目を走らせても、どこにも見当たらない。
図書委員が「もう閉めますよ」と声をかけた。
「よかったら、途中まで一緒にどう?」R子の顔に冬の透明な日が当たる。ぼくはどうにか頷いた。
図書館を出る時、もう一度見渡したけれど、やっぱり黒髪の少女はいなかった。