旅するトナカイ

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恋文

そのコーヒーは、蒲田青年にとっては決して安くなかった。
自分と年の変わらぬ学生たちは皆、ビルの一階にけばけばしい看板を構えた、安くて不味いコーヒー屋に入った。二階のこの喫茶店の入り口は、一階の原色に圧されていくらか地味に見えたが、挽いたばかりの上質なコーヒーを出すので、味の分かった老紳士や記者などは、好んでこの喫茶店を選んだ。
そんな客の中で、蒲田青年はいささか場違いであった。
頭のてっぺんからつま先まで、青年は貧乏学生であった。田舎でくすぶっているのが嫌になり、また自分の絵の才への多少の自惚れもあって、親に立派な口実をつけて都会へ出た蒲田青年であったが、自分の生活費は自分で何とかする、なに今に自分は大成功するさと大見栄を切った手前、資金を頼る当てはなく、古本屋で棚をはたきながら稼いだ金でなんとか暮らすには困らずにやっていっている、という有様であった。
そんな彼にとて、週に一度のアメリカンブレンドは大のつく贅沢であった。
青年はコーヒーの味など分からなかったが、それでも足しげくこの店に通うのは、茶を運ぶ平田嬢の姿を見たい一心であった。
テーブルの上の資料を読むふりをして、青年はずっと、平田乗のトレーを持つ姿、テーブルを拭く姿、同僚と世間話を交わす姿を眺めた。ただ、人一倍に奥手の彼であるから、平田嬢が自分のテーブルへ来てコーヒーを置く前に「失礼致します」と一礼する姿だけは、未だにまともに拝めたことがないのであった。
しかしその蒲田青年も、いつまでも忍ぶ恋をしてはいられない。学校へ行けばクラスメイトたちは、やれどこの女を口説いたの、誰をたぶらかしたのと浮いた話ばかりに華を咲かせている。それを聞く度に、青年はその話の主人公が自分とあの麗しき平田嬢であれば、と思うのだ。
ある夜、それは喫茶店へ行く前の晩であったが、とうとう蒲田青年は堪え切れずに、平田嬢へ宛てた手紙を書いた。今度、一緒にお茶でも如何ですか、といった内容であった。内気な彼には、それだけしたためるのが精一杯であった。一字しくじる度に新しい紙を用意した。床に入る前、青年は何度も何度もその手紙を読み返した。
さて、その手紙を懐に忍ばせて、いつもの如く喫茶店へ入る青年の心持を御想像頂けるだろうか。
彼はいつにも増して目を泳がせ、平田嬢がこちらへ向かって歩く度、壁掛け時計を見るためにこちらへ首を振る度に、青年の心臓は胸を突き破りそうなのであった。出された水はあっという間に飲み干してしまった。注文したコーヒーにミルクを入れて飲み、サービスの日本茶をすする間、彼はずっと身体が火照り、手に汗をかいた。
今度一緒に、お茶でも如何ですか。お茶でも如何ですか。蒲田青年は心の中で、何度も手紙の文面を読み返した。そしてそれをいざ、平田嬢へ手渡すタイミングを、今か今かと図っていたのだが、案の定なかなか決心がつかないのである。何のことはない、一杯の茶に誘うだけの手紙だというのに、彼の内向的性格はそれほどまでに強かったのだ。
ぐずぐずしている内に日も暮れてしまう、いよいよ腹を括らねばと青年が思った時である。あろうことに、彼女の方から彼に近づいてきて、
「お茶でも如何ですか?」
蒲田青年は気を失いそうであった。はっと顔を上げると、そこには平田嬢の愛らしい笑顔があるのだ。彼女がその口で、彼にそのような言葉をかけようとは、青年は夢心地であった。返事を、無論肯定の返事をせねばと思うが、言葉らしい言葉は一向口から出てこない。
返事の代わりに、彼女の台詞そのままの手紙を渡して自分の心情を伝えようと懐へ手を伸ばした時である。平田嬢は、丁寧に蒲田青年の空になった湯呑みに茶を注ぎ足し、さっさとまたカウンターの向こうへ消えてしまった。