旅するトナカイ

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ラブレター 後編

喉を泥が下っていくような気分だった。

そういえば、と思い出せば、最初の兆候は「模様替えをしよう」と彼女が言い出したことだろう。共同で遣っていた寝室を分けて、2LDKの2部屋を、自分の部屋と僕の部屋とに割り振ろう、と言い出したのだ。

その時は、僕のいびきのせいなのか、それともいよいよ加齢臭という魔の手が迫ってきたのかと疑ったくらいで、あまり深く考えなかった。

それ以外でも、彼女が夕飯を外で食べて帰ったり、友達と飲み歩く頻度が増えた。(浮気を疑った時もあったが、女友達とへべれけになる姿がツイッターに上がっているので心配なかった。)

とにかく彼女の態度は明らかに変わっていた。僕はもっと早く、それに気づくべきだったのだ。この1ヶ月ほどの僕の能天気さを、僕は呪った。

 

それでもまだ、気づくことができたのだから幸運だと言う他ない。

部屋で彦根城のプラモデル作りに没頭していた時に、ふと、庭に干したシャツがばたばたと風に踊らされているのが目に留まり、僕は作業を中断して洗濯バサミを直しに庭に出たのだった。普段は洗濯物などすっかり彼女に任せているのに。

すると、これもまた偶然に、庭の植え込みのふちに、僕の赤いスコップが刺さっているのが視界に入った。以前探していたのに見つけられなかったスコップだ。(城のプラモデルが完成したら、庭の土を小山に盛って写真を撮る用に使うのだ。部屋で撮るよりも臨場感が増す。)こんなところにあったのか、と安堵すると同時に、でもどうしてここに?と僕は訝しんだ。

スコップは明らかに人為的に土に突き立てられていた。普段は玄関の靴箱にしまってあるから、そもそも庭に出ていること自体おかしい。空き巣か何かが、家に侵入したのだろうか。僕の頭はぐるぐると回転した。いや、何も盗まずにスコップを持って庭に出て何になる。

そうなると、家の中の人間の犯行ということになり、必然的に彼女の仕業、ということになる。

どうしてまた。僕の頭はまたぐるぐると回転する。最近の僕への態度がよそよそしいばかりでなく、僕に黙って庭をいじり始めたのだろうか。しかし庭の植物には変化がない。まさか、埋蔵金でも掘り当てて独り占めするつもりなのだろうか。この辺りに徳川埋蔵金が埋まっているということをどこかで聞きつけたのだろうか。

埋まっている?

ぼくははっとした。嫌な寒さが背中を落ちていく。

タイムカプセルだ。

 

それを埋めたのは、この家に引っ越してきた時なので、10ヶ月ほど前になる。

「1年後に掘り返して、お互いに宛てた手紙を読もう」と約束していた。正直、僕にとっては苦痛以外の何ものでもないイベントだった。そんなロマンチックなのは僕の柄じゃない。

第一、彼女との同棲からして、僕には重荷であった。明らかに彼女は結婚への下準備という心づもりのようだったし、自由奔放で無鉄砲で言い出したら聞き分けを持たない彼女と共同生活を営み、いつかは入籍して共に子どもを育てるということが、僕には想像できなかった。マリッジブルーならぬ、同棲ブルーであった。

タイムカプセルなどはその最たるもので、互いの手紙にはプロポーズの言葉をしたためる筋書きになっていることは明らかだった。そんな気恥ずかしい手紙など書きたくないし、彼女の描いた脚本通りに振る舞うことは男としてのなけなしのプライドが許さない。

それまでは全て、僕らの関係は、彼女の望み通りだった。彼女が「会いたい」と電話すれば、彼女がかんしゃくを起こさないために僕は飛んでいかざるを得なかった。バラの花束を要求されれば30本贈った。刺があるからと言われて僕が一本一本、剪定して花瓶に差した。「手が荒れる」と言われて僕が水を換えた。最後は花びらを一枚ずつちぎって彼女の風呂に浮かべる係を請け負った。彼女はとんでもなく勝手で、でもそのあっけらかんとした態度と、放っておけない危うさのせいで、僕は離れることができなかったのだ。

しかしそれも、もうおしまいだ。僕は自立した男になるのだ。彼女の筋書き通りのプロポーズをして、尻に敷かれ続けて情けない旦那を演じたりは絶対にしない。僕も、彼女も、自立して、地に足をつけて生きていこう。

僕がタイムカプセルに埋めたのは、決して、ラブレターではなかった。

 

10ヶ月前の手紙の内容と、ここ数週間の彼女のそっけない態度、別々の部屋、毎晩のように酔い潰れた女友達との写真、全てが僕の脳内で洪水となって押し寄せ、かき混ぜられ、そしてまた轟音を立てて去っていった。

そうだ。彼女は読んだのだ、僕の手紙を。

慌てて僕はタイムカプセルを掘り起こし、10ヶ月前の手紙と、それから彼女の手紙を、一瞬迷ってから、開いた。

彼女の小さな、豆みたいな字の可愛らしさとは裏腹に、内容は激しく荒ぶっていた。便せん5枚分、いつもの彼女のかんしゃくが、そのまま書き起こされたようなものだった。「あなたと出会わなければ良かった。」締めくくりの言葉は、いい加減腕が疲れたのだろう、字がのたうちまわっていた。

読み終わった僕はすっかりすり減って、手紙とタイムカプセルを元通り埋め戻した。

 

それから数日間は、どうやって生きていたかよく分からない。

ただずっと、手紙の内容を思い出しては、10ヶ月前と今の僕の気持ちを行ったり来たり考えた。彼女の態度は相変わらずで、そっけない振る舞いに隠された悲痛な心情を思うと、僕の胸は切り裂かれた。

何も言わず自室の扉を閉める彼女の背中を見て僕は考え、彼女の自家製ヨーグルトを一人の朝食で食べて僕は考え、風呂場の石けんの減り具合を見て僕は考えた。

考えても考えても、行き着くところは一つだった。

なけなしのプライドは、10ヶ月間の歳月の中で、彼女と暮らす日々の中で、すっかり牙が抜けてしまったようだった。いや、というよりも、それよりも大切なものが僕の中ですくすくと育っていたのだった。

 

家の中で便せんを探したが見つけられず、結局2駅向こうの文房具屋まで買いに行った。

電車の中で、僕はぐるぐると、手紙の内容を考えていた。この10ヶ月間の彼女との生活を考えていた。

彼女が僕より早く帰って作る料理のことを、冷蔵庫に切らされない第三のビールのことを、僕が裏返しに脱いでも表を向いてたたまれる靴下のことを、居間で寝落ちしてもテレビや電気が消されていることを、詰まりかけていると思った翌日には解消している排水溝のことを。

考えても考えても、溢れるばかりでなかなかまとまらなかったが、帰って机に向かい、とにかくこれだけは、と決めた書き出しから始める。

「僕は君と出会えて良かった。」