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【社会学#6】加害者の救済

毎朝毎夕ニュースで取り上げられている、「中1男子殺害事件」。

確実な証拠が少ないうちから、犯人は年上グループだろうという論調がそこここで見られ、(青少年の冤罪でだけはないことを祈りつつも)本人の供述もありどうやら少年たちの犯行ということで結論づけられそうだ。

報道を見ていてなんだか他の殺人事件とはトーンが違うように感じられるのは、「誰のせいにもできない」空気。
これまでは何か事件や事故が起こると、どこかに責任を負わせたいという切迫感があった。それによって、多くの人が、自分が「あちら側」でないことを確認して安心できる。犯人の人格の異常性をことさら強調したり、行政や企業の管理体制に問題があるとしたり、トップの人間を退任させたり。

けれど今回は、この状態下での精一杯がこれで、他にどんな手立てが現実的にありえたのか…という空気を感じる。不良ループを抜け出せない状況、知っていても大人の助けを求められない少年少女、電話をかけ続けた教師、女手一つで子供たちを育てていた親、群がることで自己を形成しようとしていたかもしれないグループの未成熟な少年たち。
どこを見ても「お前の怠慢だ」とは攻めるべくもなく、だからこそこの事件を口にするとき、やり場のなさ、寄る辺のなさ、漠とした歯がゆさ、が言葉の中に見え隠れする。

しかしこれでは安心できないと、「警察」が責任の所在の候補に上がったようだ。

おそらくはこれをきっかけに警察批判が続くとは思うが、それでもこの事件をうずまく不安感は消えないだろう。警察が介入を強めたところで、グループの力関係は根本的に変わらなかったはずだ。


ここで私たちが気づかなければいけないのは、被害者・弱者を救う手立てを講じるだけでは悲劇を防ぐことはできない、ということなのではないか。
むしろ救いが必要なのは、年下に暴力を振るうことでしか自己の在り処を見出せなかった少年の方ではないのか。
彼はどうして、暴力や支配によってしか、他者を動かし関係性を築き共生していく術を持たなかったのか。
家庭環境や、性格や趣味嗜好というアイコンを切り取って、よくある「暴力的なゲームをしていた」「ネットでグロ動画を見ていた」「親の虐待を受けていた」云々という新たな「責任の所在」を引き出すのはもうたくさんだ。
いろいろな事情や生まれ持ったものがそれぞれある中で、他者の幸せを奪うことではない方法で自分の幸せを手に入れる術を、少年少女たちはどのように体得していけばいいのか。その体得ができないままに成人も間近になった者は、どこでそれを取り戻すのか。

報道の中で「同級生にいじめられていた、グループのメンバーも暴力的な彼を嫌っていた」と言われる彼こそが、子供たちが自己を見出しづらいシステムの被害者だったのではなかったか。

性犯罪でもイスラム国でもなんでもそうだが、誰もが被害者でも加害者でもありうる社会では善悪二元論に切り分けられないこと、加害者や悪を糾弾することで防げる悲劇はあるかもしれないが全てではないことを、いちど見つめなければならないかもしれない。
悪を駆逐するヒーロー戦隊では、人類の理解と協調、自由と解放による「平和」は実現できないのだ。