今年に入ってから「セックス・アンド・ザ・シティ」をhuluで全話+映画2本まとめて視聴した。 huluがあってよかった。ツタヤレンタルで全話視聴は、当日返却を頑張ったとしてもツタヤ破産してしまう。
セックス・アンド・ザ・シティ 2 [ザ・ムービー](吹き替え) (予告編)
1シーズン12話〜 × 6シーズン、全94話あるので大変なものだったが、英語の勉強にもなるので作業用BGMがてら流し見ていた。SATCがいかに英語の勉強になるかはまた別の機会に語るとして、やっぱりアラサー女にはこの4人の個性際立つ主人公たちの生き様はビシバシ刺さってくる。
全話完走して、映画も2本(これもhuluで)観たらSATCロスに襲われた。ループするにも、なんかもう94話もあるとどっからループしたらいいもんだか分からなくなるので、「これを観た人におすすめ」的なので上がっている「デスパレートな妻たち」にも手を伸ばす。
こっちは飛び抜けて登場人物がクレイジーなので、2シーズン完走してからはちょっと休憩中。
SATCもデスパレートな妻たちも、どちらも「4人の女たち」の話だ。
4人はそれぞれ全く違うベクトルの性格で、でも互いに打明け話をしたり時に勘ぐりあったりする仲間でもある。
彼女たちの、夢見る乙女な一面、リアルでシビアな一面、サバけていて甘え下手な一面、いつまでも輝いていたい一面を見て、歳の近い女たちは共感し、彼女たちの幸福を祈らずにはいられなくなる。
同じ構造が「東京タラレバ娘」にも見られる。
そう、大人になると、「共感」を作品に求めるようになる。
「わかるわかる」「そうそう、そうなの」「でもどうしようもないの」と頭を縦に振れば振るほど、作品にのめり込んでいく。
どういう性質の人が、どういう過ちを犯すか、どんな困難にぶつかるか、私たちは経験則で知っている。しかしそれを乗り越えてなんとか大人になってきた立場から、物語の登場人物たちもどうにか乗り越えて、乗り越えないまでもそれはそれとしてしぶとく生き延びていく様を固唾をのんで見守ってしまう。
あの人ほど自分はひどくない、とか、あのキャラのこういう点とこのキャラのこういう点を私は持っているな、とか、あの人はこのキャラにそっくり、とか、知っている人間を登場人物に当てはめては、「もしかしたら自分にも起こったかもしれない」物語に思いをはせる。こんな時、自分ならどうするか。あの人なら、こんなことをするだろうか。
子供の頃、胸が熱くなった作品は「憧れ」だった。
例えば学園もののドラマなんかで、不遇を嘆いて非行に走る生徒を教師が熱くたしなめるシーンに涙を流したのは、大人にうまく意思表示ができない自分がかけて欲しかった言葉が、そこにあったからだ。
不治の病を知っても愛を貫く男女の物語に胸を奮わせるのも、自分もいつかそんな不変の愛を知りたいという、未来への希望をそこに見るからだ。
大人になれば、そういう話は「ドラマの世界だ」と割り切れてしまう。白馬の王子様はいないことは知ってしまうし、「幸せに暮らしましたとさ」というのも嘘っぱちだとわかる。「シンデレラ」も「王子と結婚」という人生のピークで終わっているからハッピーエンドなのであって、育ちも生活様式も違う者同士が一緒に住むなど数年もすれば価値観や金銭感覚の違いがあらわになって関係が綻んでいくに決まっている。
むしろ、大人として自立したその先にある悩み、苦悩。子供の頃思い描いた「大人」ならば絶対にしないであろう幼稚な妬みや意地っ張り。大人の世界には「めでたし、めでたし」なんてないのだ。めでたくなくても、それでも生活はただ続いていって、問題は消えずにただそこにあって、自分はただ生きていくしかなかったりするのだ。
そんな「大人の事情」に、「そうそうそうそう…」と思ってしまうのが、この作品。
映画化されたけど、そっちはまだ観てない。
妻を失った小説家の主人公が、同じく母親を失った家族と交流する中で変化(成長、とは言い切れないのがまた大人の世界)していく話。
この主人公の男性の、中身がお子ちゃまなまんま!の中年男というのが、「いるいるいるいる…」「うわー、あるあるあるある…」という、自らの共感というよりは「男性あるある」感ハンパなくて、実際にこんな人が身近にいたら蹴飛ばしたくなるんだろうけど、読んでいると不思議と清々しい気持ちになってくる。清々しいほど、「いそう」「ありそう」なのだ。この主人公のあらゆる行動と心情が、「こういう人ならばこうするであろう」道順をしっかり沿っていて、そのリアリティにあっぱれなのだ。
そのリアリティに感服して、西川美和の本を他にも読みたいと思ったが、映画監督なのであまり小説は出していないんですね。書店で見つけられずがっくし肩を落としていたところ、目に入ったこちらの本を読んでみた。
角田光代「森に眠る魚」
意識していなかったけど、帯をよく見たら、アメトーークの「読書芸人」でオードリー若林が紹介していた本だった。
さてこれが、冒頭紹介した「4人(前後)の女たちの物語」のラインナップに並ぶ、アラサー女にはたまらない小説だったのだ。
幼稚園前後の子供を持つ4人のママ(+サブ的なもう1人)たちが、子供の教育方針や、夫・家族との関係、生活に求めるもの、夢見たこと、それぞれバラバラで、それぞれ微妙に偏屈なんだけど、でもものすごく「ありそう」「自分もある意味こうかもしれない」と思わせる。ママたちの輪郭はとてもざらついていて、立体感がある。
角田光代はそういえば「八日目の蝉」「紙の月」は読んだことがあった。これらにも「こういう人って実在しそう」というリアリティがあるが、ただこれらはもう少しセンセーショナルな事件が展開していく話なので、フィクションのサスペンスとして読み進めてしまえる。
でもこの「森に眠る魚」は、自分の少し先の未来かもしれない(人によっては「自分にもありえた過去」かもしれない)すぐそこに息遣いを感じる、鼻息が自分の頰にかかってくる、そんな不気味な実在感がある。それは多分、私の年頃や環境にとってこの小説のプロットがあまりに卑近だからそう感じるのだろう(他の属性の人ならこれこそ「フィクション」だと感じるかもしれない。)
それぞれに少しずつ偏ったところのあるママたちは、その偏りゆえに徐々に道を狂わせていく。小さな糸のほころびがやがて大きな穴になってしまうように、どんどん元の道から外れていってはしまうのだが、しかし、大人の私たちはその「どん底」が人生の終着地でないことを知っている。穴が綺麗にふさがってハッピーエンドになることなどありえないが、穴が空いたなりに、時間は過ぎ、生活は続き、子供は成長し、人々はそれぞれの人生を進めていくしかないということを知っている。
子供の頃の私は、それを絶望的だと感じたかもしれない。
でも大人になった私には、それこそが最大の「希望」なのだ。
全ての悩みや苦しみ、問題は解消されるものだと、ある日王子様が現れて全く不足のない満ち足りた世界に連れて行ってくれるものだと思っていた子供時代には思いもよらなかった、大人が生き延びていくための希望、それは「知恵」と呼ぶのかもしれないし、「諦め」というのがふさわしいのかもしれない。
そうやって生き延びていく大人たちの物語が、糸のほころびをどうにもできないままにまた明日がやってきてしまう私たちの未来に、ほのかな光を当ててくれる。