世の中、悲しいニュースが多い今日この頃ですね。
といってもそれぞれのニュースに対して「悲しい」と心を痛めるかどうかは、その出来事が自分に関係があるか次第なので「えっ別に普通…」って方はどうぞその平穏が続きますように。
SNS…特にTwitterを見ていると、悲しいニュースの悲しみが雪だるま式に増幅していくように感じます。
悲しいニュースに対して、自分で心を消化する前に「悲しいです」とつぶやく人に遭遇して、更にそれに「私も悲しい」「私はこんな風に悲しい」「私にはこんな悲しみもあった」というようにダウナーな感情の共感がどんどん伸びていくのを見ると、まるで自分もそれぞれと同じく悲しいかのように感じてしまう。
多くの悲しみに呑まれて、本当は自分はどれくらい・どうして・何に対して悲しんでいるのか…これは「悲しみ」と呼ぶ感情なのか…それを整理する前に悲しい空気に持っていかれます。仮に「いや、分かるけど私自身はそこまで悲しくないぞ」と思ったとしても、では多くの悲しんでいる人の前で能天気に過ごしていていいのか…と「悲しんでいない自分」に引け目を感じてそれがまた悲しい。
(ちなみに便宜上「悲しい」としていますが、「やるせない」「ゆるせない」などいろいろなタイプの負のニュース全てについてのことです。)
日常生活で吐き出しづらい感情を吐き出せるSNSによって救われることは多いと思いますが、一方で、そんな風に自分をマイナスの感情へと追い立ててしまうこともあります。
考えれば考えるほど悲しい、やるせない、自分が無力に思えて仕方がない、そんなニュースや出来事があったとき。
私が救われたのは「水曜どうでしょう」ホームページのディレクター日記で、東日本大震災に際して嬉野Dが書かれたこちらの日記でした。
2011年3月14日(月) | 水曜どうでしょうD陣日記アーカイブ
(あまりに前のことで公式が見つけられず、まとめサイトのリンクを拝借しました)
私がこの日記を読んだのは震災から数年経った後でしたが、それでもこの日記が、日々襲ってくるあまりにも大きな悲しい出来事に対して「SNSで悲しんでいる人ほど悲しめていない自分」「悲しいと思ってはいるけど、結局のところ平常運転で生活している自分」「支援や応援など何をしていいか分からず、手も足も出ない自分」「悲しい気持ちや態度を、どこで落とし前つけていいか分からない自分」を許せるきっかけになりました。
時間のある方はぜひ全文お読みいただきたいですが、私が胸のつかえが取れたのはこの一節です。
ぼくらは、それを見守りながら、
ぼくらの日常をいつも通りに過ごすべきです。
そうして力を貯えるべきだと思います。
そしてこの日以降、嬉野さんの日記は必ずこの一言で結ばれます。
それでは諸氏、
本日も、各自の持ち場で、どうぞ、奮闘願います。
そうです。
私たちにはそれぞれの持ち場があり、そこで胸を張れるていどにーー苦しい人と同じくらい苦しむとか頑張るとか楽をするなとかは言いませんーー自分に嘘をつかなくていいていどに、その持ち場で奮闘すれば良いのです。
そう考えられるようになってーーそう漠然と思ってはいたのですが、それを明言してくれる人が私の尊敬するスターであったことでーー私の心は随分と軽くなりました。
それでも1つのニュースで2〜3日凹むような時もいまだにありますけども、でも「なにかの儀式・契機を経ないと日常生活やフラットな精神状態に戻れない」ということはなくなりました。自分の持ち場を守ることも、悲しむことと同じく大切なことだと思えたので。
あらゆるものごとにはグラデーションがあります。
中心の濃い、濃い部分の人たちがいて、外円に行くほど薄くそして広く大きくなっていきます。
あらゆるものごとが、その「中心」の人たちと「外円」の人たち、そしてその更に外側にいるてんで無関係な人たちによって成り立っています。
悲しみにもグラデーションがあるのです。
不幸なできごとのど真ん中にいて深く深く悲しむ人たち、そしてその「外円」の、そこまでは悲しまなくていい人たち。
「外円」の人は、なにも「中心」の人と同じように悲しむ必要はありません。自分は「外円」なのだから。そこにはその役割があるのだから。
感情だけではなく、例えばコストを払うことについてもそうです。
事件や災害に際して募金やボランティアという「自分の人的・物的資源をもって貢献する」ということも、もっと足元を見れば日ごろから街のお店を買い支えるお客さん、アイドルのファンについてもです。
多くのコストを払う「中心」の人がいて、それほどではないけど…そこまではできないけど…という「外円」の人がいる。
もちろん近所のお店やアイドルにとって一番ありがたいのは「中心」たる常連さん、たくさん来てくれてお金を落としてくれる人です。でも「外円」には「外円」の役割がある。
世界の多くの土地で「旅人をもてなすべし」という教えがあります。
それは遠い距離を移動するのが困難だった時代、物資や情報を運ぶ人をサポートしなければ広大な土地を治めるシステムが成り立たないということだったのでしょう。
しかしそれだけでなく、旅人をもてなす村々にとっても外部の情報に触れて固定観念や先入観を破り、「世の中にはこんなこともあるのか」「こんなことが向こうでは起こっているのか」と知り自分たちをアップデートする機会でもあったでしょう。
旅人は「中心」にいる人たちから見れば「外円」の人です。ひとところに留まらず流れる人です。
しかしその存在のおかげで、ハッとすることができる。「中心」から見えない世界に時折触れて、自らを客観視できる。
大切なことは、どちらも互いのありようを尊重することです。
「中心」の人は「外円」の人に対して「お前はなにも知らないくせに」とマウントをとってはならない。
「外円」の人は「中心」の人をからかったり冷笑してはならない。
SNSで手軽に、立場の異なる人の発言や心情に触れられる時代、うっかり相手の立場に引きずり込まれることも、逆に過度に反発することにも気をつけなければなりません。
その「悲しみ」は自分のものなのか。
「苦しみ」は、「怒り」は、「経験」は自分のものなのか。
自分の持ち場はどこなのか。
もし自分のものでもあった時には、それ相応に当事者としての対応をすれば良いと思います。
もし自分のものではない場合は、必要以上に自分を傷つけませんように。
嬉野さんの言葉を借りて、それぞれが、各自の持ち場で奮闘しましょう。
…そうそう、それからもしも自分の今の「持ち場」が本当に自分にとって守りたい・大切にしたいものではない場合には、早々に切り上げて本当の持ち場へと向かうことも大切だと、最後に付け加えておきます。