今月はやたらと気になる映画が多いですね。
「スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム」はトム・ホランドくんスパイディ好きとしては見逃せなかったですしバッチシ恋してきたんですが(スパイダーマンという概念に)、もうこれは世界中にごまんとファンがいる強大コンテンツなので私からは何も言うまい。レビューサイトの好意的なレビューを見に行けばインターネットの住人の皆様が私が思ったことはだいたい書いてくれているので…。
しかし。こちらは紹介しないわけにはいかない。
『コーダ あいのうた』
予告編はこちら
あらすじ
豊かな自然に恵まれた海の町で暮らす高校生のルビーは、両親と兄の4人家族の中で一人だけ耳が聴こえる。陽気で優しい家族のために、ルビーは幼い頃から“通訳”となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、秘かに憧れるクラスメイトのマイルズと同じ合唱クラブを選択するルビー。すると、顧問の先生がルビーの歌の才能に気づき、都会の名門音楽大学の受験を強く勧める。だが、ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられず、家業の方が大事だと大反対。悩んだルビーは夢よりも家族の助けを続けることを選ぶと決めるが、思いがけない方法で娘の才能に気づいた父は、意外な決意をし・・・。
…ここまでのあらすじで大体わかった。私が泣くやつ。
『リトル・ダンサー』って映画、ご存知ですか? 私の大好きな作品なんですが、ミュージカル化もされている名作です。
『リトル・ダンサー』はその名の通りダンスの映画ですが完全にこれの「歌」版だし、ジャンルが「ヒューマンドラマ」に分類されてる時点でどーせ最終的には主人公は家族の理解を得て成功を収めてハッピーエンドなんでしょ…わかってるよ、完全に話はわかってるよ…わかってるけど泣くんだよ。
というわけで、『リトル・ダンサー』が好きな方は「あー、あれね」と思っていただければいいんですが、本作は「自分の将来の夢に親の理解が得られない子どもの挑戦」だけではありません。
「コーダ」という、自分が家族の生活を支える立場にある子どもたちの問題(短絡的に「問題」と括るのにはかなり抵抗があるのですが)が描かれます。
(ちなみに本作は2014年のフランス映画『エール!』のリメイクだそう。私は元の作品を知らなかったので、そっちも気になりますね。)
目次
- コーダ(ろう者の子ども)の生活
- コーダとして育つということ
- 家族の“通訳”を背負う少女
- ルビーの兄の葛藤
- ルビーの“歌声”は、家族にだけは聞かせられない
- 音楽好きには嬉しい音楽映画
- ラストはハッピーすぎる気もするけど…
- そこまで深く考えなくても、楽しく観れる作品です
コーダ(ろう者の子ども)の生活
映画の原題は「CODA(コーダ)」。
「耳が聞こえない・聞こえにくい親を持つ子ども」をさす用語がそのままタイトルになっています。
以前たまたま『コーダの世界』(医学書院/澁谷智子 著)という本を読んでいたので、それを題材にした作品なら見ないわけにはいかない。(この医学書院の「ケアをひらく」シリーズ、私のような門外漢にも易しくケアの各分野のことを教えてくれる良シリーズです。)
この本で読んだコーダの生活の難しさが、映画の主人公・ルビーの姿を通して、「ごく普通の、どこにでもいる高校生のあたりまえの感情」を通して見えてきて、切ない涙なしには見れない作品でした…。
コーダとして育つということ
『コーダの世界』を読んで知ったことですが、まず初めに、音が聞こえない人は「自分が立てる物音」に気づくことができません(言われてみればそりゃそうだ)。
食器をガチャガチャ鳴らさない、ドアをバタンと閉めない、声や音のTPOをわきまえる…。
そういう私なら幼少期に親に注意されて備わってきたことが、そもそも聞こえない人には「どの程度だとうるさくて、どの程度だと静かか」ということも自分では分かりようがない。そしてその子どもは「ガチャガチャしたらうるさいよ」「静かにしなさい」と親に教わることがないのです。(もちろん両親ともが聞こえないとは限らないし、聞こえる度合いもあるのでコーダの全員がそうではないのですが。)
映画の中でも、主人公・ルビーが家で勉強中に家族の生活音がうるさくて集中できない…というシーンがあります。
でもその生活音が気に障るのは、家族の中でその音が聞こえる彼女だけ。それが聞こえない家族たちはみんなお構いなし。
そういう、家族の中で自分だけが理解されない「小さな孤独」をルビーは日々、味わってきたのでしょう。
他にも、ルビーは入学時「話し方がヘン(ろう者みたい)」と学校でからかわれました。
コーダは、言葉の発音や話し方・声の出し方を親から教わることができない。それでも耳が聞こえる人たちの世界に溶け込まなければならない。
その緊張感は言葉だけでなく、あらゆる仕草、視線、人との接し方、文化など生活の細やかなところに張り巡らされています。
家族の“通訳”を背負う少女
先ほどの澁谷さんの本の中では、コーダの生活を想像する際の参考として国際結婚をしたカップルの子どもや海外で生まれた子どものように「親は母国語しか話せないけど、自分はバイリンガル」という状態を挙げています。そんな子どもたちは、家族の通訳として家族にアテにされることになります。
この映画の主人公・ルビーも「生まれてからずっと家族の通訳」になることを強いられてきました。
・家業の漁に出ているとき、船の無線通信の音に自分しか気づかない
・親が誰かと電話したいときに通訳をする
・レストランで家族全員の注文を店員に伝える
・重要な会議の内容を通訳する…
日常の些細なことから「大人の会話」まで、すべての通訳を担うのは17歳のルビーであり、もっと幼かった頃からルビーはそうだったのです。
『コーダの世界』でも、幼少期から親の通訳を担うことになる子どもたちの状況が描かれていました。
親戚との電話、学校からの電話、役所からの電話…それを全て受けるのは自分。通訳サービスはありますが、家族に通訳できる人がいるのにわざわざ外部のサービスを頼むのは煩わしい。第三者に聞かれたくない話だったある。
ルビーはきっと彼女が小学生だった頃から、自分の知らない言葉が飛び交う大人の難しい会話を音声語から手話(または筆記)に訳さなくてはならなかったのでしょう。時には「子どもには聞かせたくないような話」も聞くことになってしまったでしょう。「これはどうオブラートに伝えようか」と、会話する両者の板挟みで気を遣うことも多かったでしょう。
学校の先生から保護者に直接伝えるべきようなことを、自分から親に通訳するのはどんな気分だったでしょう。家計のことや仕事のことを自分が代理人として交渉するのはどんなに難しかったでしょう。
そんな環境の中でコーダは必然的に、早く「大人になる」ことを強いられます。
さらにルビーは「自分がその場にいる時にうまく通訳できるか」だけでなく、「自分がその場にいれば聞こえたかもしれないのに」という、「自分がいなかった」ことまでを背負うことになります。
普通なら「その場にいなかった」人にまで責任を負わせることはないでしょう。
でもルビーは、家族がいる場所どこでも「その場にいること」を課せられる。
いろんなことがしたい、自分の時間が欲しい高校生なのに。
10代にもなればただでさえ1人でいろんな世界を見に行きたい、家族と離れて自立したい欲求が出てくるのに、コーダであるルビーは家族がいる場所に自分はいなければならないし、自分も家族なしに1人行動ができないのです。
ルビーの兄の葛藤
ルビーの家族も、ルビーを通訳として家庭に縛っていることと、しかし現実問題ルビー無しでは周囲とのコミュニケーションが取りづらいことの間で葛藤します。
兄は、自分一人でも立派に漁師としてやっていけるように自立すべく奮闘します。しかし、耳の聞こえる妹・ルビーは自分よりもあっさり周囲と話をつけてしまう。親も「通訳を雇うお金はない」からと妹を頼みの綱にしている…。
「妹が自分の人生を歩めるように」という兄として妹の幸せを願う想いと、「妹の方が、ろう者の自分よりもうまく漁師業をこなす」という職業人としてのプライドが傷つけられる、優しさと悔しさのないまぜになった感情がスクリーンを通して切なく胸を打ちます。
そしてそれは決して、妹がズルいわけでもないし、自分の努力が足りないからでもない、まして両親が悪いわけでもない。
常に家族のため、そして自分のプライドのために筋を通す兄のたくましさが眩しい…。
妹に対する憎まれ口も、それだけ見ればよくある兄妹の悪口の言い合いなのですが、あくまで対等な兄妹としての関係を築いていること、家族がルビーに甘え過ぎないよう兄として突き放していることが感じられてなんとも泣けます。
ルビーの“歌声”は、家族にだけは聞かせられない
もうね、この映画の一番の泣けるポイントはここなんですよ。
ルビーは歌の才能を学校の先生に見出され、歌の練習に励みます。歌を歌うこと、音楽大学を目指すことが彼女の生活の中で生きがいになります。
しかし、家族は歌を聞くことはできない。
それはもう、どうやっても聞くことができない。
子どもの才能に気づけるかどうか、自分に子どもの才能を評価できるセンスがあるかどうか、気づいたとしてそれを伸ばしていくため教育費用を捻出できるかどうか…そんな「親として」の数々のハードルがある中で、ルビーの家族は彼女の歌を聞いたことすらないのです。
ルビーの歌がどれだけ周囲を感動させられたとしても、その声を家族だけは聞くことができない。
自分の娘が・妹が、いかに素晴らしい才能に恵まれて生まれてきたかということを、一番近くにいる家族だけが体感することができない。
どんなハッピーなシーンにも、この切なさを切り離して見ることができない。
ルビーの歌声が美しければ美しいほど、家族がそれを聞けない切なさが際立ちます。
これが家族ドラマによくある「家族の絆で〜」とか「親の愛情で〜」とかでどうにかなるようなモンではないからこそ、「血の繋がった家族ならきっと伝わるハズ!(キラッ)」みたいな理想論・根性論で安易に片付けられない深みとリアリティをこの映画にまとわせます。
音楽好きには嬉しい音楽映画
テーマが“歌”なので、やはり音楽は楽しい。
合唱部の気になるカレとラブソングをデュエットするシーンはとってもロマンチックです。
あと、俳優のみなさんの「歌が下手な演技」がすごい。
音楽の先生が「声が出てない!」と指導するシーン、声が出てない状態からだんだん声が出ていくところが素人目(耳)にも違いが分かって、歌が上手いだけでなく「下手な演技ができる」っていうのもすごいことだなーと思って見ていました。
登場する人みんな歌声がいいので、「とにかく歌ウマを見るのが好き」って人は作中通して楽しめると思います。
ラストはハッピーすぎる気もするけど…
ポスターの感じとかが「感動のヒューマンドラマ」って雰囲気の時点で「主人公は夢を叶えてハッピーエンド」とならざるを得ない話なんですが…(やっぱり主人公・ルビーが救われないと観客も後味悪いし)、ただその後ろう者の一家が自立して暮らせるのかは気になるところです。
アメリカにどんな福祉制度があるのか、金銭面・人材面(通訳の派遣とか)のサポートはどのくらい充実しているのか知らないので、ルビーの夢を叶えることと家族の生活とがどの程度トレードオフの関係なのか私にはわかりません。
ルビーが家族に縛られ続ける物語だと「障がい者の家族のせいで前途ある若者が夢を叶えられなかった」みたいに障がい者を叩くような話になってしまうし、かといって「障がい者は自分たちで何とかしなさい」という物語もなんとも冷たい気がします。
この物語の上ではルビーの兄がしっかり者なので、まぁ家族のことは彼がなんとかしてくれるだろう…というのが観客にとっては希望の光なのですが、現実にはそうも言ってられない種々の壁が立ちはだかるであろうことは想像に難くありません。
映画作品として成立させるためには細かい話は割愛せざるを得ないものの、コーダに限らず、またいわゆる「ヤングケアラー」に限らず「家族の課題を家族内でなんとかする」ことの限界は世の中のあちこちで明らかになる中で、「自分の人生を優先するか、家族のケアを優先するか」の二者択一を迫られない、そもそもこの物語が物語として成立しない世の中に近づいていくことを望みます。
そこまで深く考えなくても、楽しく観れる作品です
…ここまでコーダのことや社会課題を重苦しく深読みしましたが、作品自体は別に社会派なわけではなく、音楽と風景美もある爽やかなヒューマンドラマなのであまり身構えずに軽い気持ちで見てみてほしいです。
「コーダ特有のもの」と切り分けなくても、家庭環境にイライラする10代の葛藤とか、親からの期待に苦しむ子どもの気持ちとかは誰しもが共感できるはず。また、親の立場から見てもルビーの両親が「良い親」になれるか不安になる気持ち、子どもへの心配と尊重の間で揺れる様子に自分を重ねるかもしれません。
終始アイドル気質のルビーの母親にはちょっとイラッとしますが(笑)、でも誰も抜本的に改心するわけでもなく、圧倒的な成長を遂げるでもなく、それぞれに備わったもので日々楽しく笑ったり苦しく悩んだりもする、考えたり工夫したりして完璧でなくともひとまず進んでいく。人生なんて、生活なんてそんなモンであるという爽やかな割り切りがこの映画を素晴らしいものにしています。
コーダの世界の入り口として、
10代の葛藤と挑戦を描く青春映画として、
歌うことの楽しさを確認する音楽映画として、
家族の想いを紡ぐファミリードラマとして、
重くも軽くも、甘くも辛くも味わえる素晴らしい映画です。
ぜひ間に合う方は劇場に見に行ってみてください。
音の聞こえない家族目線の世界を体感する無音シーンは、自宅よりも映画館で観る方がおすすめです。
(あ、ちなみにPG-12指定の濡れ場がありますが、ウェットなラブシーンとかではなくカラッとしたもんなのでご心配なく。)
これらもおすすめなので再掲。
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