この時代の、新たな「親子モノ」があらわれた。
「ひょんなことから子どもを預かることになった主人公が、子どもとの関わりの中で自らを見つめ直していく」…そんなあらすじで最初に連想したのは『クレイマー、クレイマー』。
無邪気で多感な子どもと関わるうちに、大人自身が孤独や悲しみと向き合い、人生の後悔を振り返り、そして前を向いて生きていく逞しさを学んでいく…みたいな物語は他にもたくさんある。(し、そのどれもに毎回まんまと泣かされる。)
本作『カモン カモン』は、この時代に、アメリカという国で暮らす大人たちに向けられた最新版の『クレイマー、クレイマー』だ。
小学生と、中年が見るそれぞれの「人生」
主人公は、ホアキン・フェニックス演じるジョニーおじさん。ラジオジャーナリストで、アメリカ各地の子どもたちにインタビューするプロジェクトを行っている。
彼自身は独身だが、妹一家のゴタゴタを助けるため、妹の息子(つまり甥っ子)のジェシーを預かることに。
(ジョニーとジェシー、微妙に似ている名前の主人公2人にされると日本人にはツラい。)
まぁ預かるくらいなんとかなるだろう…と甘くみていたジョニーおじさんが「小学生のお世話」の洗礼を浴び、トラブルだらけ、しっちゃかめっちゃかのドタバタギャグコメディ!…とはならず、かといって、大きな悲劇が2人を遅い涙のクライマックスへ…ともならず、淡々と、中年の働く男性と小学生の少年の間に起こるであろう、愉快な日常と、失敗と修復、体力の限界とそれでも回さねばならない日々…が淡々と、リアルに描かれていく。
しかしそのリアルさゆえに、セリフの一つひとつ、シーンの一つひとつ、差し込まれる引用の一つひとつが観客の胸の奥にある大切な思い出の扉を開く…そんな作品である。
録音で「未来へ残すもの」
この作品でキーになってるのが、主人公ジョニーの「ラジオジャーナリスト」という職業だ。
デトロイト、ニューヨーク、ニューオリンズなどアメリカの様々な都市へクルーを引き連れ、そこで暮らす子どもたちにインタビューを行う。「いま」「そこ」にいるティーンたちが日々何を考え、何を感じているのか等身大の声を集めているのだ。
子どもたちの声は、その土地土地の環境から影響を受けているように感じられる。デトロイトの子どもの視点と、ニューヨークの子どもの視点はやはり違う。けれどそれ以上に、子どもたち一人ひとりが違う。同じ目でものを見る子はいないし、同じ考えを持つ子もいない。
アメリカとは、様々な歴史ーー成長と衰退、悲劇と繁栄ーーを持つ地域がタペストリーのように縫い合わされた国で、その中に様々な宗教やバックグラウンドを持つ人種・民族がこれまたタペストリーのように隣り合って暮らしている。映画の中に挟み込まれる子どもたちのインタビューシーンに、そのことを強く意識させられる。
そして同時に思う。
一人の人間の中にもまた、タペストリーがある。
未来に希望を抱く気持ちと絶望を悲観する気持ちが隣同士に縫い合わされている。誰かを信頼する気持ちと心を許せない気持ちが隣同士に縫い合わされている。家族を愛する気持ちと憎む気持ちが縫い合わされている。
それは「表裏一体」「物事の表と裏」というよりも、「すぐ隣」なのだ。ポンとステップを踏めばすぐに隣のゾーン。さっきまでは愛のゾーンにいても、次の瞬間には憎悪のゾーンにいる。次には悲しみのゾーンに移っているかもしれないし、怒りかもしれない。
そうやって、タペストリーの上を移ろいながら人は生きていくが、でも相手にその全ては伝わらない。愛していたことが伝わらないこともあるし、憎んでいたことが伝わらないこともある。そして自分自身も、次の瞬間にどのゾーンにいるかなんて分からない。
分からないのは次の瞬間…未来のことだけではない。過去のこともだんだんとボヤけていく。 人は忘れゆく生き物なのだ。
嫌なことばかり覚えている相手とも、きっと良い時間もあったし、楽しい思い出もあった。こちらは嫌なことばかり覚えていても、相手は楽しかったことを覚えているかもしれない。
どんなに楽しい時間を過ごしていても、そのことを覚えていられないかもしれない。人生で一番の思い出も、いつかは消えてなくなってしまうかもしれない。
ジョニーおじさんは、甥っ子ジェシーにインタビュー機材で遊ばせてあげる。マイクを通して、ヘッドホンでその場所の音を聴き、録音する。
ニューヨークで録音あそびを楽しむジェシーに、ジョニーは言う。
録音がクールなのは、音を永遠に残せるから
平凡なものを不滅にするってすごくクールだ
楽しいし
彼は、いつか大人になるにつれて色々なことを覚え、そして忘れてゆく甥っ子のために「いま」「ここ」にある思い出を録音してあげる。いつかの未来のジェシーが思い出せるように。
そして、映画の中のインタビューの子どもたちが、観客である私たちに思い出させる。
「未来はどうなると思う?」
「もし超能力が使えるとしたら?」
「両親についてどう思う?」
それらの質問に、10代の頃の私はなんと答えていただろう?
きっと私たちは、私は、あまりにも多くのことを忘れてきたのだ。
10代に考えていたこと、思っていたことをたくさん置いてきてしまった。
その中には思い出したくもない嫌な思い出もあるだろうし、美しく輝かしいものもあるだろう。
10歳の子どもが見る今の私は、25年後の未来だ。
では、私の25年後は?
そしてこの子どもたちにとっての25年後は?
私の25年前を思い出させてくれた彼らに、私は何を残すのだろうか。
モノクロの映像が全てを伝え、全てを分からなくする
この映画は2021年制作だが、全編モノクロになっている。
(ただし、ラストのほんの一瞬だけカラーになる。そこには監督の強い強い想いとメッセージが感じられる…それはぜひご自身の目で確かめていただきたい。)
インタビューというのは、不思議な行為だ。
作中でも語られるとおり、対象をなんでも丸裸にできるようでいて、かつ何も分からない。短時間の問答の中で聞き出せるものなんてごくごく限られている、けれども普段の会話からは引き出せないような心の奥のものを引きずり出したりもする。
映像記録はなく、声だけしか録音できない。対象者の表情や服装は分からない。それでも声が雄弁に伝えるものがある。心の底からその言葉に共感してしまうことがある。
「まるで自分かのように、手を取るように分かる」感覚と「一握りも分からない、少しも近づけない」という感覚ーー“全能感と不透明性”ーーそれを行ったり来たりするのが「ラジオ」という音声メディアの面白さだ。
映像としてそれを試みたのが、この作品がモノクロになった理由ではないかと思う。(たぶん監督インタビューを探せば理由は明らかになるのだろうけど、この趣旨からして「すぐに“正解”を探す」行為はズレてしまうのであえて純粋な感想を記す。)
内容そのものは、カラー映画でもまったく問題のない作品だと思った。いっそのこと、アメリカの各都市が持つ“カラー(個性)”を強調し、それぞれの登場人物の“カラー”を見せることで人々の多様さ・多彩さを印象付けることもできただろう。
しかしあえて「色を無くす」ということこそ、ラジオが持つ“全能感と不透明性”に少しでも近づく試みだったのだろうと思う。
色をなくした街の風景。色をなくした登場人物たち。
ますます「分かりやすい」方向へと向かっていく現代のエンタメコンテンツに対する断固とした反抗であり、かつ、モノクロだからこそ観客の心と繋がることができるという「引き算」への信奉でもある。と私は感じた。
人生は続いていくし、私たちは続けていく
ジョニーおじさんに対して、小学生のジェシーは、子どもならではの無邪気さで「なんで結婚しないの?」「なんでママと兄妹らしく話さないの?」などとグサグサ質問してくる。
大人目線では、そりゃ人生いろいろあるし、一言で答えられるようなことじゃないんだよ…物事は複雑なんだよ…と思うものの、適当なキレイゴトの回答はジェシーにあっさり見破られてしまう。
そしてジェシー自身も、唐突に親元を離れておじさんと暮らすことになったこの状況に戸惑う。その戸惑いをどう扱えばいいのか、自分が何を感じているのか分からなくて混乱する。感情をうまく言葉にできない。状況にうまく対処できない。対処できなくて、取り乱してしまったことを後から恥ずかしく思う。
でも、それって大人になっても全く同じなのだ。
自分の感情をうまく言葉にできない。うまく対処できない。人生で出会うなにもかもが初めてで、混乱するし、取り乱す。そして後になって「なんて恥ずかしいことを」と穴を掘って自分を埋めたくなる。どうすれば良かったかを何度も反芻して、次こそはもっとうまくやろうと思うけど、そんなチャンスは訪れなかったり例え訪れたとしてもそううまくはできなかったり。
そんなことが続いていく。続いていく中で、ただただ続けていくしかない。
「カモン カモン」。
先へ、先へと、ただただ続けていくしかないのだ。
キレイゴトの答えは簡単に見破られてしまうから、そのことだけを伝えてくる。
それが『カモン カモン』という映画だと私は思った。