この記事のシリーズも3本目になりました。おそらく全5編になると思います。
(1本目はこちら↓)
さて、映画のちょうど半分の地点。
観た人はもう分かりますよね。きましたよ。お昼寝タイムです。
- とにかく眠い
- 1. 旅団との出会い
- 2. “森の孤児” の紹介
- 3. 劇の幕開け…ボーのもう一つの物語
- 4. マリア像
- 5. 謎の男
- 6. ジーヴス
- 7. 記憶
- 感想…「これは僕の物語だ」とほざく観客への一撃
- 罪悪感を抱かせる親のコミュニケーション
- ボーの告白 臆病である罪
とにかく眠い
ここのパート、とにかく眠いです。
第1パートではデス・シティで説明無用のクレイジーに次ぐクレイジーな展開、第2パートではグレースの家で束の間の安息を得ながらボーの過去に迫りました。『トゥルーマン・ショー』状態だったことが明らかになり、これから物語の謎に迫っていくのか…と思わせます。
が、ここでちょっと箸休め。
グレースの娘・トニを死なせてしまい、激昂したグレースに殺されそうになったボーは家を飛び出して森へと迷い込んでいきます。
そこでボーが出会ったのは…。
1. 旅団との出会い
暗い森の中をさまようボー。聞こえるのはオペラのような美しいBGMと、森の生き物たちの声…。おとぎ話のような世界です。「ヘンゼルとグレーテル」や「白雪姫」もこんな森を歩いたのでしょうか…。まぁ、今回の主人公はいたいけな兄妹でも美しいプリンセスでもなく、陰キャおじさんなんですけどね…。
迷子のまま、夜になってしまいました。
しかし遠くから女性の歌声が。
ボーは声の元へ行き「迷ってしまったんです」と助けを求めます。
女性は快く助けてくれます。
お腹が大きい、どうやら妊婦のようです。
…母のようにボーを包んでくれたのに最後には牙を向いたグレースの母性から、今度は「これから母になろうとしている」女性へ…傷ついた無垢なボーは、次から次へと母性に縋ってゆきます…。
ボーを見た女性は言います。
「頭にガラスが刺さってる。取ってあげていい?」
…あ、そういえばグレースの家を飛び出す時、思いっきりガラス戸をぶち破ったのでした。そりゃ怪我しないはずないよね。
ガラスを取ると、傷口から血がタラタラと垂れてきます。血に慌てるボー。「はわ、はわわ、はわわわわ…」とオドオドし始めます。
そんなボーを女性は母のような優しさで包み込みます。「大丈夫よ、頭は血がたくさん出るけど、すぐに止まるから。」
「ほんと? ほんとに?? もう止まった?? 止まったの??」
子どものように尋ねるボーに、女性はとことん優しく対応します。「もう大丈夫。私の父は大量出血で死んだの。」
…さらっと言われましたが、「血が出ても大丈夫だよ」の文脈とは関係ないよね…? むしろ逆じゃない…? そんなこと言われたら不安にならない…?
この女性の父親の死については特に触れられず本筋とは関係ないのですが、しかし「父親の死」というキーワードはボーの人生にも通じます…。
さて、消毒するために女性はボーを彼女の居所へ案内します。
案内された先は、森の中に設営されたコミューン。
森の木々の合間に布のテントがぽつぽつと建っています。
入り口には「中庸を知るべし」「夢を見つけるまですべての虹を追おう」などの標語看板が立っています。ちょっと思想のあるグループみたいですね。看板自体は可愛らしいファンタジックな雰囲気で、まるでアリスの世界に出てきそう。
(周りが極端な人ばかりで「中庸」のなかったボーの人生に、何かを訴えるかのようです。)
女性はすれ違う住民たちにボーを紹介していきます。
「色々あって大変だったみたい」と紹介すると、「悲しみは単独ではなく大挙して押し寄せる (When sorrows come, they come not single spies, but in battalions)」というシェイクスピアの引用をするおじさんも。まさにそれだね。
あちこちから声が聞こえてきます…どうやら劇のセリフや歌を練習しているようです。
ボーをじっと見ながら「キューピッドは矢で射抜いたり、罠にかけたり (Some Cupid kills with arrows, some with traps)」と、これまたシェイクスピアの引用を呟くおじさん。…意味深ですねぇ…ボーの人生に現れた女性たちのことを言っているのかなぁ…。
あちこちから聞こえてくる劇のセリフが、まるでボーのこれまでの人生を語っているかのように感じられます。「岐路に立たされた」「進むべきか」「これは葬式だ」…。
2. “森の孤児” の紹介
傷の手当ても終わり、女性はボーを劇場のステージ横へと連れていきます。森の中に立派なステージが設置されていて、照明や音響もバッチリです。
ステージ横のスポットライトが当たっているところにボーを連れていき、女性はみんなに紹介します。みんな口々に「大変だったね」と労ってくれます。
ボーは尋ねます。「ここは何?」
「私たちは “森の孤児”、旅する旅団」
「孤児と言っても、ほとんどは親に捨てられた」
「森から森へ旅して、その場にあるものを利用する生活をしている」
「最後には盛大なショーを上演する」
てんとう虫の着ぐるみを着たリーダー格の男性も説明に加わります。
男性はボーに近づくと、唇に優しいキスをして「気の毒にね」と同情してくれます。…ボーは直立不動で何も応えません。女性に対しては母性に追い縋るけれども、男性に対してのコミュニケーション手法がまったく引き出しにないことが分かります…。
女性が旅団の創設者を紹介します。木の上に座っている、仙人のような老人です。
「彼を見て」と女性が指差すと、スポットライトが仙人の方にくるっと向きます。
その木の足元には仙人を「パパ」と呼ぶ少年の姿が。…父かのように慕う子どもなのか、それとも本当の子供でしょうか。一瞬のシーンですが、雲の上ならぬ木の上の存在になってしまい、父としての義務を全うしない父親の姿を象徴しているようです…。
大きな音楽が鳴り響き、劇のスタートを合図します。
するとスタッフの男性がボーに話しかけてきました。「衣装に着替える?」と。
「観客と演者の境界を曖昧にしたい」という趣旨で、観客にも衣装を着てもらうようです。
そういえば、ボーが着ていたのは名前の刺繍入りのシルクパジャマ。ペンキでベトベト、ガラスで血だらけ、土で泥だらけになっています。やっと綺麗な服装にお着替えです。(そういえば「お母さんのお葬式に相応しい服で来い」って言われてたよね〜。)
2つのシャツから片方を選びます。「こっちは君の目の色に合うし、こっちはデザインが楽しいよね。」
ボーは迷った末に、楽しい方のシャツを選びます。
男性は「これは僕もお気に入りだよ。(That's my favorite suit.)」と答えて着替え室に案内してくれます。
…映画とは関係ないんですが、こういう英語の表現、いいよなぁーーー…! お店とかでお客さんが選んだものに対して「分かりました」で済ますんじゃなくて、「私もお気に入りだよ」と後押ししてくれるの。どっちを選んだとしても、その選択に太鼓判押してくれる感じ…。日本語でやっちゃうとねちっこく感じるのに、英語圏だと“粋”に感じられるこの不思議。
…ボーは完全に忘れてますが…。そんなことをしている間にも、グレースに放たれたジーヴスがボーを追っています…。
そう、ボーの足首についている健康モニタリングのデバイス。あれで位置情報が丸わかりなのです。
ボー、新しい状況に出くわすとその環境に馴染むのに精一杯で、自分の来し方と行く末を忘れるところがあるよね。馴染まんでええ。はよ実家行けぇ。心の中の千鳥ノブが叫びます。
3. 劇の幕開け…ボーのもう一つの物語
屋外ベンチに観客たちが座り、劇のスタートに備えます。みんなワクワクムード。さっきまであんなに厳かだったのに、場内BGMには軽快なポップミュージックが流れてさながら映画館の上映前です。
“森の孤児”の上演会に集まる人たち、一体どうやってこれを知ったのでしょう。中にはパリッとしたスーツ姿のおじさんも。「僕はここで何をしてるんだ?」と周りの人に聞いて回っています。…ボーと同じく、何かの事情があって訳もわからず辿り着いてしまった人生の迷い人が他にもいるようです。
ドラムロールが鳴り響き、ステージの幕が上がります。
ステージ上には、秋の風景。
真ん中にはお墓が立っています。お墓に書かれているのは「父」「母」。
…両親を亡くした青年の話のようです。まるでボーじゃん。
主人公の青年の嘆き悲しむ姿に、感情移入してしまうボー。
青年は春まで泣き続けます。ステージ上の木がくるくる回って葉の色が変わり、地面の草むらが袖にハケて、天井から降っていた落ち葉が雪に変わり…と、かわいい舞台演出で季節の変化を表現しているのが巧みです。
そこへ天使が現れます。
「あなたは十分に悲しみ、両親も救われました。さあ、行くのです。自分の家庭を築きなさい」
青年は思案します。「僕は先へ進むべきか、このままで留まるべきか」
舞台袖の、謎の手回し装置でBGMが流れます。ブオオーーーーン…という不思議な風の音。
低いグラスハープの音のような、血流の音のような、心地よい音。
これがずっと流れるので、ボーを含む観客たちはトランス状態のようなふわふわとした感覚になります。そして映画を観ている私たちも、眠気に誘われます。
「ここに留まれば死んでしまう」青年は歩み出そうとします。ボーじゃん。
…が。歩み出そうとした足は、鎖で繋がれていました。
天使は言います。「やっと気が付きましたね、ずっとあったのですよ」ボーじゃん。ボーのトラウマじゃん。
母親の死を乗り越えて、母のトラウマを克服し、自分の人生を歩んで家庭を築く…。ボーがこれからやらなければいけないことを、劇の青年がまさにやろうとしています。
青年は斧で鎖を断ち切ります。
…鎖を断ち切った時、その青年はもう劇団員の青年ではなく、ボーになっています。
ここからの物語はもう、舞台上の演劇ではありません。ボー自身の物語です。
(1) 家庭を築く
物語の中で、ボーは歩きに歩きます。遠くまで歩き、村に辿り着きます。
直感的にここが終の住処だと悟ったボーは、そこに定住します。
手に職をつけてお金を稼ぎ、自分のお金で食料を買って食べ、自分の手で家を建て、土地を耕し自給自足します。(ボーがこれまでできていなかった「自立」です。)
女性と知り合い、伴侶となります。
妻はボーの弱い部分も強い部分も受け入れてくれ、ボーもまた相手のそれを受け入れます。時に彼女は、男性のように逞しく見えます。
セックスをして子供を作ります。
3人の息子が生まれ、それぞれハンサムで勇気も優しさもある素晴らしい子に育ちます。
セラピストとも良好な関係を築きます。ボーは自分の人生の充実ぶりを語り、セラピストがその記録を残してくれます。
しかし平穏な日々は続きません。ある日、大嵐によって家は流され、家族と散り散りになってしまいます。
(2) 家族との別れ
見知らぬ土地に流されたボー。
家族を探し歩きますが、どれだけ長い年月をかけても見つけられません。
お金のために仕事をしたくても、言葉の違う土地でボーは怪物のように扱われ、誰にも受け入れてもらえません。
ある時、荒廃した街を通りかかると、狂った男に罪を着せられてボーは収監されてしまいます。
なんとか逃げ出しますが、復讐に燃える村人たちに追われ続けます。ずっと追われている感覚が付き纏い、ボーはたくさんの日記を記します。
旅を続けて老人になったボー。
重ねた年月によって多くの知識も得て、多くの経験によって老成します。
それでも家族を探し続けますが、やっぱり見つけることはできません。
(3) 人生の告白
老いて衰弱し、倒れるボー。
しくしくと涙を流します。
「なぜ泣くのですか?」天使が尋ねます。
「生涯をかけて家族を探したのに、最期になっても独りぼっちのままなんだもの」
天使は言います。
「自分の不運ではなく、自らの罪を嘆くべきです。あなたも誰かに探されていたのに、あなたが利己的すぎて誰にも見つけられなかったんです」
…服が真っ黒になっているので、これは天使ではないかもしれません。
これは母の声…? 社会の声…? 自分から自分に向けられる声…?
「懺悔しなさい、みんなの前で」
「でも…僕が何をしたの…?」ボーのキメ台詞が人生の最期でも飛び出します。
「分かってるでしょ。懺悔しなさい」
ボーは泣きながら声を振り絞ります。
「僕は臆病者だった。人生を通して」
…ついにボーは自覚して、言葉にします。
ずっと「僕が何をしたの?」と罪のないキラキラおめめで相手に縋っていたボー。
ボーだって、本当は分かっていたのです。
臆病こそが、自分の罪であると。何もしなかったことこそが、自分が犯した最大の罪であると。
(4) 再会
全てを告白すると、心が軽くなったのでしょうか、穏やかな眠りが訪れます。
ラッパの音で目を覚ますと、そこは森の中。
なんと、懐かしいあの村がここにあります。
住人はもうボーを覚えていませんが、懐かしい風景です。
歩いて行くと「1ドルのスープ」と「1ドルの芝居」の看板が並んでいます。
芝居は、一夜だけ屋外の劇場で上映されるもの。ここやん。
体は弱りきってお腹もぺこぺこなのに、ボーは手元に残された最後の1ドルを芝居の方に払います。
ステージ上では、女性が3人の青年に読み聞かせをしているシーンです。
まるで「この村に辿り着いたボー」について語っているような内容。物語の入れ子がさらに増えていきます。
舞台上では仮面を被った女性が本を読み上げます。
「彼は村にたどり着きます」
「芝居に惹かれて、スープではなく芝居に1ドルを払います」
「そしてその芝居の内容が、自分とそっくりなことに気づきます」
「そして彼は立ち上がり言うのです」
「これは僕の物語だ!」
立ち上がったボーに、舞台上の3人の青年が気づきます。
舞台上の青年は、ボーの息子たちだったのです。
(5) 父親の死
涙ながらに抱擁を交わすボーと息子たち。
あまりにも長い間、生き別れになっていたのです。
ボーがずっと探していたように、息子たちもボーをずっと探していたのです。
美しい再会の瞬間。
長男がボーに尋ねます。「母さんは?」
「…え? 君たちと一緒じゃないの?」
「僕らは孤児として育てられたんだ。母さんはどこ?」
母親はやっぱり見つからないまま。でも今は、父親と息子たちが再会できた、それだけで十分じゃないですか。
次男が尋ねます。「他に家族はいないの?」
ボーは答えます。「おばあちゃんがいるよ」
「おばあちゃんはどこ? おじいちゃんはどうして死んだの?」
…ボーは回想します。
幼い頃。
ベッドに寝かされて、お母さんが布団をかけてくれています。枕元には切り絵のランプがくるくる回って、かわいい陰を落とします。
母はボーに語ります。
「お父さんは結婚式の日、あなたを身籠ったその瞬間に亡くなったの。私の中で果てた瞬間に、心臓の病気のせいで苦しみながら死んだ。私たち両方の初体験だった。おじいちゃんも、ひいおじいちゃんも同じ死に方をした。
私が強引に求めたせい。普通の人生が、子供が欲しかったから。
私の上で、私の中で死んだのよ。
それを考えるたびに、私は気が狂いそうになる。でもそのトラウマが、同時に人生最高の贈り物をくれた。
あなたにも引き継がれていることが本当に残念よ」
…その話を聞いた3人の息子たち。
「嘘だよね?」
ボーは首を振ります。「本当だよ。だから父さんは誰ともまだ経験がない」
…え? じゃあ息子たちは誰の子供なの???
「じゃあ僕らはどうやって?」
尋ねられて、ボーは答えに詰まります。
あれっ、そうじゃん…この設定、矛盾してるじゃん…。
(6) ボーの未来であり、現在であり、過去である
矛盾に気づかされて、ボーははたと現実に戻ります。
この物語はボーの物語…でも、ボーの人生のどの部分でしょう?
両親を失って悲しみに暮れる主人公は、まるで現在のボーのようです。その後の展開は、両親のトラウマを乗り越えて歩み出すボーの明るい未来を予感させます。
しかし「理想の自分、理想の伴侶、理想の家族を探し求めたけれど、最期まで手に入れられない」まま絶望する姿も、まるで現在の、まともに自活して家庭を築きたかったけどそれができていないボー。けれど自分の罪を自覚することで、息子との再会という明るい未来が開けます。
そして、森の中の劇場で「これは自分の物語だ」と感情移入する姿も、まさに現在のボーです。劇の主人公に自分を重ねて脳内自分語りを始めますが、しかし設定の矛盾に気づいて物語は破綻してしまいました。
このストーリーは、ボーのこの先の未来を暗示しているのか?
それともボーのこれまでの人生での過ちを自覚させるためのものなのか?
それとも全てが、現在のこの地点について別の角度から照らしたものなのか?
全てがボーの物語であり、同時に、ボーの物語では全くない。
4. マリア像
設定の破綻に気づいたボーは現実に引き戻されます。
ステージ上では演劇が続いています。ボーとは全く関係のないストーリーが展開しています。
がっかりして座り込むボーを、妊婦の女性が心配してくれます。「大丈夫?」
「気分が悪い」とボー。子どもか。
女性は飲み物を差し出してくれます。(コミューンの女性が差し出す飲み物…ミッドサマーを思い出しますが、これはどうやら大丈夫なやつみたいです。)
優しくしてくれた女性に何か返したい…と思ったボー。
胸ポケットを探ると、お母さんへのお土産のマリア像が。
それを女性にプレゼントします。
これから子どもを迎えるであろう女性にぴったりのプレゼントです。
5. 謎の男
ふと反対側を見ると、後ろの席からボーをじーーーっと見ていた老人が。
…そういえばこの男、グレースの家の庭にもいたし、「キューピッドは…」というシェイクスピアのセリフが出てきた時にもボーを見ていた男です。
「私を覚えているか?」
どうやらこの老人、ボーを幼い頃からの知り合いらしいのです。
この老人が恐るべき事実を打ち明けます。
「お父さんは生きている」
え???
「私は君の母親に雇われて、お父さんの身の回りの世話をしていた。私の親が君のお母さんに借金があったから」
…そこまで話して、老人がボーの足元を見ます。
そこにはそう、健康モニタリングデバイスが。
監視されている。
気づいた老人はすぐに話をはぐらかします。「なんでもない、冗談だよ」
ただ、これだけは言わなければ…と声を低くして。
「君に会えて本当に嬉しい」
老人は最後に言い残し、ボーの元を去ります。
訳も分からずボーは「待って。あなたは僕のパパなの?」と問いかけますが、男はそのまま去ってしまいます。
追いかければいいはずなのに、混乱してボーの体は動きません。
6. ジーヴス
そうしている間にも、芝居はクライマックスに。
主人公の青年が舞台から遠くを指さします…が、なんだか変な音が聞こえる。
闇の中で男の声が聞こえたかと思った瞬間。
ナイフが青年の胸に突き刺さります。
劇場は大パニック。
演者たちは逃げ惑います。天井から吊るされた天使は「下ろしてー!」と叫びます。
観客たちは何が起こったのか分からず戸惑うばかり。
そこへボーを呼ぶ声が。
さっきの老人です。
「ボー、逃げろ!」
そこに大爆発。
そうです。元軍人・ジーヴスが完全武装で乗り込んできたのです。
マシンガンの乱射。
逃げ惑う観客たち。
あちこちの悲鳴。
ジーヴスは無差別にマシンガンをぶっ放します。
そこへ村人が背後から近づいて、ジーヴスを殴ります。
前に倒れ込むジーヴス。
倒れる際に、マシンガンの銃口を自分の胸に向けて倒れてしまい、ジーヴスの胸は蜂の巣に。貫通した弾で村人も蜂の巣に。地獄。
死ぬ寸前、最後の力でジーヴスはスマホを取り出し…ボーの足首のデバイスを切断します。
真っ暗な森を全速力で逃げていたボー。
デバイスが切断された瞬間、なぜかデバイスから電流が走り、感電したボーはその場で気絶します。
7. 記憶
ボーの記憶の中。幼少期のボーは、バスタブに浸かっています。
水着姿の女の子がお湯をかけてくれていた…これはエレイン…?
…かと思ったら、母親の声が。エレインはいなくて、ここは自宅のバスルームのようでした。
母親は、ドアのところでもごもごする息子を叱ります。
「早くしなさい! あなたのせいでママは傷つくわよ」
少年は問います。「パパはどこ?」
その言葉が母の逆鱗に触れます。
「死んだって言ったでしょ。ママを傷つけたいの?」
「知らないもん、パパに会いたいんだもん!」
少年は、子どもの残酷さで母に歯向かいます。
そうだよね、父親が死んだことをそう簡単に飲み込めないよね。みんなにはパパがいるんだから、僕だってパパが欲しい。そう言ってしまうのは全く罪のないことです。
すると母親がこちらに振り向きます。
「あなたもパパが欲しいの?」
首を振ります。これはあくまで、ボーの主観の視点です。
怒った母親は息子の手を引いて廊下へ。
自分もそれを追いかけます。
廊下の先で、母親は屋根裏部屋への階段を下ろします。(屋根裏といえば『ヘレディタリー/継承』…ですがここでは何があるのか分かりません…。)
聞き分けの悪い息子に母親は言います。「上がりなさい!」
息子は「無理」と言いますが、母親は止まりません。
「ママを傷つけられるくらい大きいんでしょ、だったら上がれるでしょ!」
母に詰められて息子はこわごわ階段を上がります…。
また、母親はこちらに振り向きます。
「あなたも上がる!?」
「やだ」ボーは首を横に振ります。
「それは何? 頷いたの?」
オドオドするボーの仕草にまで叱責は飛びます。
俯くと、ボーの足は少年のものになっています。
いつか母親に言われた「オドオドしていて、頷いてるんだか首を振ってるんだか分からない」という厳しい言葉で、記憶を旅するボーまで少年時代に引き戻されたのでしょう。
「もうあなたの話はしない!」
母親は、屋根裏室に少年を残したまま、階段を畳んで閉じ込めてしまいます…。
「あんたは戻ってなさい!」
母に迫られて、ボーは現実世界に意識を取り戻します。
パート3はここまで。
次からはいよいよクライマックスに向けて駆け上がります。
今回はさながら、ラストスパートに向けた休憩タイム…といったところでしょうか。劇の語りはとても穏やかで、紙でできたかわいい舞台装置にキュンとしていたらウトウトしてきちゃう…そんなパートでした。
予告映像を見た時も、このシーンのペーパークラフト感がかわいくて惹かれたんですよね。
でもまさか、ただの劇中劇ならぬボーの妄想だったとは。
感想…「これは僕の物語だ」とほざく観客への一撃
このパート、眠いです。眠いんですけど、監督の「映画とは」「映画と観客とは」というものを描いたメッセージに見えました。
野外演劇を見て「これは僕の物語だ!」と妄想を始めるボー。
演劇は演劇でストーリーが進行しているのに、それとは別に自分の「理想の家族」「理想の人生」の脳内自分語りを始めてしまう。
しかしボーの脳内は10歳から成長していないので、性の知識も社会の常識もない。最後には「え? 童貞なのになんで息子いるの?」と設定の破綻に気づいてしまい、妄想はストップ。
「自分は穢れなき清純な人間でいたい」「でも妻と子を持って人並みの幸せは得たい」都合の良すぎるおじさんのわがままをまさに映像化して、そして「いや矛盾してない?」と冷や水をぶっかけられる。大人になれていない大人たちを容赦なく刺してきましたね。
そして、こんなふうに「この作品って、子供部屋おじさんをまさに表現しているよね!」「ボーが臆病だったことを認めれば社会から許されるんだよね!」と現実と虚構を重ね合わせて講釈垂れてしまう私のような観客こそが、ボーそのものなのです。
ボーを見た時に、他人事だと思えなくなる。
自分のトラウマを刺激される。
コンプレックスに共感してしまう。
「うわぁー、これって私のことみたーい」と、まるでスポットライトに照らされ世界の主人公になったかのような気分で悦に浸る。主人公が経験する受難を見て「そうそう、私ってこんな辛い思いしてきたのよー」と鼻を膨らませる。そのくせ、主人公が乗り越えなければいけなかった壁や障害については知らんぷりして「ま、あれはフィクションだからね」と何も行動しない。
ボーは、お前のことであって、お前のことではないからな。
『エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』で、実写の観客席が映るシーンがありますよね。庵野監督が「お前らだぞ、この映画を見ているお前らに言ってるんだぞ」と訴えるためだったというシーン。まさにあれをしているんだと私は感じました。(エヴァに関してはなんかのテレビで見た知識なのと、『Air/まごころを、君に』は1ミリも理解できなかったので間違ってたらすみません。)
そういう目で見ると、ボーに村を説明するとき都合よくスポットライトが活躍してくれたり、劇が始まるときに「演者と観客の境界を曖昧にしたい」と言っていたりと、この村に着いたときから少しずつ「芝居」と「観客」、「映画」と「観客」との境界が曖昧になっていたのです。演劇が始まる前のポップな雰囲気やスーツ姿のサラリーマンは、この映画の世界観を離れて現実の映画劇場を描いていました。
一瞬のカットに意味を持たせながらも世界観に溶け込ませていく演出の力に唸ります。
罪悪感を抱かせる親のコミュニケーション
当初から「あれ…? ちょっと毒親っぽい…?」と思われていた母親ですが、今回は割とストレートでしたね。
「ママを傷つけたいの?」「ママを傷つけたのよ!」
子育ての中で「叱る」ことは多々あるでしょうが、これは「責める」言葉。子どもに罪悪感を抱かせるコミュニケーションです。
確かに、ここにいない父親について子どもからしつこく聞かれるのは嫌だったでしょう。
世界中でいろんな親たちが、子どもの純粋な問いかけに対して煮え切らない返事を返していたでしょう。
この母親は「あなたの無意識な言動が私を傷つける」という認識をボーに植え付けることで、この状況に対処していたのです。
そしてこの「無意識な行動のせいで相手を傷つける」という恐怖が、ボーを臆病にしてしまったのです。何に対しても自分からは行動できない、何か起こったらまずは「僕が何をしたの?」と問いかけてしまうボーを作り上げたのです。
ボーの告白 臆病である罪
これまでオドオドするばかりでずーーっとイライラさせられたボーですが、ついに認めました。臆病の罪を認めました。
ちょっと胸がすいたね。
まぁ、だからといって途端にボーがシャキッとするとか、心を入れ替えて大人になるとかいうことはないのですが、観客の心の中で「なぁーんか見ててイライラするんだよな、この男」と思っていたのをキッパリ言葉にしてくれたのは気持ちが良いです。そうそう、そうなんだよ、こいつ「臆病」なんだよ。…この気持ちよさって、弱者に辛い告白をさせて爽快感を感じてるわりと悪質な気持ちよさなのかもしれないけどね。でも映画作品としてはカタルシスがあります。
みなさんはこのシーン、どう感じたでしょうか。
さて、次回からいよいよ怒涛の展開。
ボーの父親は本当に生きているのか。
母親とは何者なのか。
誰が何のためにボーを監視しているのか。
物語の核心部分が明らかになります。
お楽しみに。
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