さあ、ラスト15分です。
第1回はこちら↓
前回、母の毒親っぷりについにブチギレたボー。母を死なせてしまい、実家を後にして一人、旅へと出ていきます…。
みなさんはこの「母殺し」、どう思いましたか?
毒親がやられてスカッとした?
親子関係を修復できなくて残念?
親を殺すなんて許せない?
…私が思ったのは、
よかったねぇぇ〜〜〜〜ボォーーーーーぉぉぉ…!!!
やっと母親から解放された。
やっと独り立ちできた。
これからボーの、ボー自身の人生が始まるんだ。
きっと苦労は多いと思う。いろいろと大変な人だから。
でも元がデス・シティのカオスの中で生きてきたんだし、不条理には慣れっこだから、どんなに苦労してもこれまでより悪くなるってことはないでしょう。
これまであらゆる不幸が母親から提供されていたことに比べれば、これからの苦労は自分の責任。厳しくはあるけど清々しくもあるでしょう。
もしかしたら “森の孤児” の物語のように、終の住処を見つけ、生涯の伴侶と出会い、息子だって生まれるかもしれない…。
これまで3時間かけて不幸が降りかかってきたボーのこの先の人生に幸あれ…!!
…とはいえ、映画はあと15分しか残っていません。
どんな余韻を残して幕を閉じてくれるのでしょうか?
1. ボートで漕ぎ出す
呆然としながらも実家を出て、あてもなく歩き出したボー。時刻は夜。虫が鳴く草むらを歩いていきます。
たどり着いたのは水辺。海でしょうか。
岸に止めてある小型ボートに乗り、エンジンをかけて漕ぎ出していきます。
真っ暗な海へ。
水平線の先に何があるのかは見えません。
そう、それはまるでボーの今後の人生そのもの。
一寸先は闇。おそろしい怪物がいるのか、常夏の島が現れるのか。
まさに、ボーの人生の船出です。
2. 裁判
ボートを進めていると、岩の洞窟にたどり着きます。
ボーは何かに惹かれるように洞窟の中へとボートを進めます。
中は真っ暗。
怖くはあるけど、でも神秘的な聖堂のようにも感じられます。
ここはもしかしたら、安住の地なのでしょうか…。
細い水路を抜けて、洞窟の中の広い空洞に出ます。
月明かりが差しているのでしょうか。ボーの顔は白く照らされ、美しいBGMと共に、ボーは理想の地に…ついに…たどり着い…
たかと思ったら、ボートのエンジンがぶっ壊れます。
慌てるボー。ギーギーと奇怪な音を立てるエンジン。ボートはグラグラ揺れながら停止します。
何が起こったんだ? と思ったその瞬間。
空間にライトが付きます。
そこはアリーナ。
ボーがいる中央のステージは湖。
360度を取り囲む客席には観客。
天井から巨大な全面スクリーンが降りてきます。
状況が飲み込めないボー。
そんなボーをお構いなしに、男性の声が響きます。
「ボー・ワッサーマン。我々はこの者の罪の重さを判断するために集まっています」
声の主のおじさんの隣に座っているのは…ママ。
え? 生きてたの?
いや、それよりもこの状況、どういうこと?
ここ洞窟だったんじゃないの?
このボートの故障は何?
そんな疑問には誰も答えてくれません。
ボーの罪を裁く裁判は、幕を開けてしまったのです。
「母の悪口を言うための毎週月曜のセラピーに行く際、彼は道すがらの池でアヒルに餌をやったり、セラピストが飼っている熱帯魚に餌をやります。優しいですね。
それなのに、これを見てください!
自宅アパートの前にいた物乞いには何も施さない!!
同じ人間同士にはなんて冷たいのでしょう!!」
中央スクリーンには、アパートに侵入しようとするデス・シティ住民から命からがら逃げ延びるボーの様子が。冒頭のシーンです。
「意義あり! 通り魔による犯罪が増えている! 不審な人間を避けるのは当然だ!」
アリーナの反対側にある弁護人席で男が叫んでいます。でもその声は小さく、弱々しく響くばかり。
「それだけじゃない! 彼が9歳の頃、母親と買い物に行った。
ショッピングセンターの中で迷子になり、母親はパニックになって彼を探し回った。
しかし彼は、柱に隠れてその母親の様子を盗み見ていたのだ!」
弁護人は叫びます。
「迷ったのは本当だ、でも必死すぎる母親を見て、罰を恐れて隠れたのだ!」
「探すのに必死だった母親はつまづいて転び、靭帯を切った。それなのに被告人は助けに行かなかった」
「身がすくんだんだよ!」
「他にもある!!
被告人が15歳の頃、珍しく男友達と一緒にいた。彼は悪友たちに一目置かれようとして、母親が誕生日のプレゼントを買いに出掛けている隙に友人たちを家に招いた」
ああ、あの話だ!
ピンときたボーは「言わないでくれ」と絶望します。
観客たちは知らないので「ん? なになに?」と先を聞きます。
「被告人は母親の部屋のバスルームに悪友たちを入れて、使用済みの下着を好きなだけ触らせ、匂いを嗅がせ、持って帰らせた!」
その時の映像が巨大スクリーンに映されます。
母親は険しい顔で…少年たちへの怒りと、陵辱された悲しみ、珍しく息子にできた男友達がそんな奴らだったという絶望が混ざったような、険しい顔でスクリーンを見つめます。(…きっとバスルームの監視カメラもしっかりチェックしてたんだねママ!)
人生の中で一番恥ずかしくて情けない記憶を掘り起こされ、母親と傍聴人たちの面前にデカデカと映し出されて、ボーもとうとう黙っていられません。
「あいつらに脅されたんだよ!」
「そうだ、脅されたんだ!」弁護人も加勢してくれます。
…かに見えましたが、弁護人は何者かに羽交締めにされ、アリーナの上から岩に落とされます。
岩で頭が潰れて即死する弁護人。(これまたちょうどいい場所にちょうどいい岩があるんだ。)(ミッドサマー!!!)
目の前で人が死にパニックになるボー。
なんとかこの場から逃げ出そうとエンジンを操作しますが、言うことを聞いてくれません。(オール使わんの?)(オールあるよね?)(使わんの?)(パニックで気が回らなかったのかな。)
検事は止まってくれません。
「先日も、母の葬式のために、ロジャーたちに実家に車で送るように頼んだ。
ロジャーは彼に『今夜送って行こう』と提案した。
しかしボーは『明日送ってもらう』ように頼んだのだ!
すでに葬儀は遅れていたのに、さらに待たせる形で!!」
これは事実誤認だよぉぉぉ〜〜〜〜〜母親の思い込みだよぉぉ〜〜〜〜〜!!
ボーは「今日すぐに帰りたい」って言ったのに、ロジャーが「明日じゃないと無理」って言ったんじゃないのよぉぉ〜〜〜〜〜!
「しかもその時の表情を見てみよう!
実家に帰るのを嫌がっている表情だ!!」
(バッチリ撮られてるの怖すぎるよぉぉ〜〜〜〜〜!)
そう、緊急手術のせいでロジャーが約束を果たせず「実家に送るのは明日に延期しよう」と言い出したのに、ボーに「君の選択だ」と念押ししたのはこういうことだったのです。
ボーにしてみたら、ロジャーが手術を優先したせいで帰れなかっただけなのに!
でも世間はそんな言い訳を聞いてくれないんだよ!!
なんてったってボーはもういい歳した中年なんだからね!!
自分の行動には、したこともしなかったことも、責任取らなきゃね!!!
「昨日のことについても考えてみてほしい。
母の葬儀のその夜に出会ったばかりの女(エレイン)に被告人は愛を与えた。
亡くなった母親には愛など与えなかったのに!
そしてアバズレがその愛に応えようとした時、彼はーーー」
みるみるヒートアップして捲し立てる検事。
しかしその語気が強まるのと同時に、母親の堪忍袋にも限界がきます。
強く握りしめすぎた手すりが壊れ、湖にボチャン。
それを合図にアリーナは静寂に包まれ。
そしてどこからか、ラッパの合図が鳴り響きます。
何が起こるのでしょう。
何かは分からないけど、良くないことが起こることだけは分かる。
長年のボーの経験から、母親の「罰」が始まることは分かる。
「待って! 頼む、やめて!」
慌てて逃げ出そうとするボー。
いっそボートから飛び降りようとしますが、ボートに足がくっついて(どういうこと?)降りることもできません。
「ママ! 足が動かないよ! ママ! 助けて! お願い!」
泣きじゃくるボー。
アリーナの湖の中央で、エンジンが火を吹くボートに突っ立って、ボーは泣き叫びます。
「お願い、助けて! 許して、お願い! 僕を責めないで!」
叫ぶボーを見下ろす母親。
……あぁ……。
何にも変わってなかったんだな、ボー。
やっぱりお前はそうなんだよ。
ピンチになったら泣きじゃくるしかできない。状況を変える発想力も実行力も経験値もない。
ママに泣いて縋って「お願い」「助けて」「許して」を連呼するだけ。
ママは何度、その懇願に応えて、「今度こそ息子は」と期待してそして裏切られてきただろう。
都合のいい時だけ「ママ、ママ」と甘い声を出し、日常生活ではちっともママに愛情を示さない。その飴と鞭に打ちひしがれてきただろう。
母を乗り越えて大人になったのかと思ったら。
少しは自立するのかと期待したら。
「もう今までの僕じゃないぞ、僕だって大の大人なんだぞ」と立ち向かうかと思ったら。
何度、裏切られればいいんだろう。何度、裏切れば気が済むんだろう。
がっかりだよ。ボー。
…という母の心の声が聞こえる。
(まぁ旅に出てからせいぜい数時間じゃ、人間そう変わらないよね!)
さて、ボーは罪深いのでしょうか。
検事の言う通り、ボーは罪を犯してきたのでしょうか。
何も成長しない子供のままのボーを、この世界はどう裁くのでしょうか。
「助けて! お願い、助けて!」
ボーは声の限りに叫びますが、アリーナの客席から帰ってくるのは冷たい視線ばかり。彼を助けようと動く者はいません。
助けて、助けて、死にたくない。
別に、ボーがことさら罪深いとは私には思えない。
普通の人が、普通の優しさと防衛本能の間で生きてきただけ。本音と建前を使い分けながら世渡りしてきただけ。そりゃ、器用な方ではなかったかもしれないけど。上手くやる人ならもっと卒なくこなすんだろうけど。でも自分なりに「普通はこうやって生きていくんだよ」をやってきたつもり。
それなのに、自分には友人もいない、伴侶もいない。愛してくれる女性もいない。
母親には、まるで自分が罪深い人間かのように糾弾される。
助けて。
そう叫んでも、薄汚い空気の読めないオジサンに社会は見向きもしない。
どうしろって言うの。
どうしたらいいの。
エンジンはますます音を立てて火を吹きます。
喉の限界まで叫んだボー。
もう声も出ません。
誰も助けてくれない。
その絶望を悟ったボー。
呆然と、グラグラ揺れるボートに佇みます。
すると。
ぐるんっ
ボートが転覆。
3. エンドロール
あ、ここ笑うところです。
この転覆シーン、ラストの大一番にして雑なCGっぷりが面白すぎるからぜひ見て欲しい。
足がボートの床に接着してしまって直立姿勢のまま、ボートがくるんっと反転してしまうのです。
水面にはボートの銀色の底面が浮かんでいます。
ボートの底はしばらくボコボコと動きます。
しかしそれも次第におさまり…ボートが静止します。
…そう、その下でボーが溺れて苦しんでいたんですね…。(ゾッ…)
裁判のショーは終わり。
ボーの死に悲しむ母親の声、それを宥める検事の声が聞こえます。
観客たちは、やはり静か。
「終わった終わった」とばかりに静かにアリーナを去っていきます。
スタッフの名前が画面に映し出される中、徐々に空になっていく客席。
それはまるで、この映画を鑑賞している私たちそのままです。
エンディングの曲もなく、画面の暗転もなく、ただアリーナの真ん中で動かなくなったボートを映しながら淡々とスタッフの名前が現れては消える。
こんなニクいエンドクレジットの演出があるでしょうか。
ボーの生き様を覗き見て、ボーを好き勝手に(半分は妄想で誇張しながら)断罪し、彼が死んで静かになれば「終わった終わった」と客席を後にする。
映画を見る我々は、ボーの裁判で傍聴席に座っていた観客たちなのです。
最後にA24のロゴが現れて、この映画は幕を閉じます。
解説・感想
いかがでしたか。これが『ボーはおそれている』。
最高ですよね。
『ミッドサマー』に続いて、カップルで見に行ったらお通夜状態になる映画…ならぬ、親子で見に行ったらお通夜状態になる映画ですね!(アリ・アスターを一緒に見に行く親子なんていないと思いますが。)(もしいたら、どうなったのか知りたい。)
私はかなり痛快な風刺コメディだと思ったのですが、『ミッドサマー』に賛否があったのと同じくらい、嫌な人にとってはひたすら嫌な作品だと思います。毒親被害に遭った弱者男性がひたすら嫌な思いをする、そして最後にも救われない筋書きなので、怒りを覚える人がいてもおかしくない。
(1) 未熟な親、未熟な中年
そしてその毒親も毒親に育てられており…という、「親なるもの」の存在によって悲劇が連鎖していく「継承の悲劇」を描いています。アリ・アスター監督らしさ満載ですね。
その「らしさ」が、今回はいわゆる《弱者男性》に向いたところに新鮮味がありました。
カルト宗教とか「人怖」ホラーでもなんでもない、ただ単に、健全に発達できなかった人間性の問題。なにか特定の「悪」があって、それに取り込まれたとかではない。本人たちの問題。だからより一層、救いがない。
(2) 《弱者男性》の悲哀
作品の中でこれでもかというほど《弱者男性》の辛さをボーが表現してくれました。
(そして『ジョーカー』といい、「狂気の弱者男性」を演じさせたら右に出る者はいないホアキン・フェニックス。そんなので評価されて一生そういう役ばっか演じることになっちゃったら、おれぁやだよ。)
ついでに付け加えるとね、もう、この作品の知名度の低さこそが中年の悲哀そのものだよね。
Wikipediaによると『ミッドサマー』と比べても大コケ、大赤字です。
個人的な観測範囲でもやっぱり『ミッドサマー』に比べて圧倒的に話題になってない。
もちろん作品自体のテイストとか、中身のファンシーさとか他要因はあるにしても、女子大生が主人公なら大ヒットするのに、冴えない中年男が主人公だと全然ウケない。
ボーの「助けて」の声が社会に総スカン食らうのとちょうど同じく、映画作品としてもスルーされてしまう。
映画の中でボーが直面する社会の厳しさは、実社会で中年男性が味わう厳しさのトレースなのです。
(3) 「観客」という罪
ボーの人生は「じゃあ、どうすればよかったんだよ?」の連続です。
「精一杯、人を傷つけないように正しく生きてきたつもりなんですけど」というボーの視点と、「いや、その卑屈な態度がダメなんだよ」という社会(をコントロールしてた母親)の視点、両方を体験することができる。
場面場面で、どちらにも共感してしまう。観客の心も揺れ動きます。
「ボーにしてみりゃ、溜まったもんじゃないよな」と同情したかと思えば、「でもボー、それは悪手だ」とツッコミたくもなる。「そうだそうだ、もっとボーに言ってやれ!」と思った後で「なんだ、ボーもなかなかやるじゃん」と見直してしまう。
双方の立場で、ストレスとスカッとが連続して訪れる。
この掌返しこそ「身勝手で無責任な社会の聴衆」の態度ですよね。
無関係な人間がSNSを通じて好き勝手な意見を書き、批評家ぶり、叩いたり持ち上げたりして、最後にはポイっと捨てて次の話題へ。
あらゆるコンテンツを消費して生きる私たちは、ボーの命も消費します。
ボーが好きだの嫌いだの、ボーが悪いだのボーは悪くないだのと安全席から批評して、そしてすぐに彼のことは忘れて次のコンテンツへ。
最近では「あなたたちは見ているだけで、いいご身分ですね」と観客に視線を投げかける映画作品もちょこちょこ見られますが、この作品も “森の孤児” で劇中劇に感情移入するボーや、最後の裁判の傍聴人たちを通して私たちに目線を送ります。
(4) 嫌な気持ちを楽しむ
アリ・アスター監督、作品の中に分かりやすく「うわーこいつ、クズだ!」「こんなやつ、天罰が降ればいいのに」というダメ人間を配置して、スパスパと嫌な目に遭わせていきます。(たぶんここで「クズだ」「天罰が降ればいい」と思わない方々には合わないと思う。)
そうやって、ちょっと歪んだ勧善懲悪エンタメで観客をさんざん楽しませておいて、今回の作品では「…ね、そうやって天罰が降って困っている登場人物たちを眺めて楽しいですよねぇ。そこのあなた?」と急にこっちを見てくるのだから、監督ってば人が悪い。
でもね、そういうのも含めた「イヤ〜な気分になる」ことこそ、アリ・アスター作品の快感なんだと思います。
だって、世の中ってイヤなことばっかりなんだもの。
世の中ってイヤになっちゃう。
そうだよね、今の世の中、狂ってるよね。本当、ヤダ。
映画作品の中の世界はクレイジーで奇想天外だけど、でもそれは見るからに社会の狂気をそのまま映してもいる。
あー、イヤだイヤだ。ほーんと、やんなっちゃう。
そんな気持ちを、この作品は受け止めてくれる。
イヤな現実をファンシーな絵にして、それをスパッと断罪して爽快感に変えてくれる。それが気持ちいいからますますこの監督を信用しちゃうんです。
(5) 巧みな構成
3時間ある映画とかもう本当に純粋な悪だと思うんですが、でもこの映画ではそれを飽きさせない(途中で寝かせはするけど)巧みな構成になっています。
今回の記事を書いてみて、なるほど良い展開の仕方だなーという認識を新たにしました。
1 奇想天外な不条理設定で観客を一気に引き込むデス・シティ編(注:私が勝手に呼んでるだけで、本編では「デス・シティ」なんて一言も言ってないです)
2 ボーの過去や陰謀の「謎」を散りばめるグレース家編
3 絵本のような映像世界で空気を切り替える“森の孤児”編
4 初恋が成就するとともに、全ての陰謀と「謎」が明らかになる実家編
5 主人公が相応の結末を迎えるラスト
(人によっては4と5の切り目を変えたり、合わせて1つと捉える方もいそうです。)
スピード感やテンポはV字になっています。1は駆け抜けていき、2で少し落ち着いて、3でお昼寝タイムってくらい静かになったかと思いきや、4、5はテンポを増して畳み掛けていく。
こうなると3“森の孤児”編はカットしても良かったのでは…? という気はしないでもないですが、でもこの映像美がないと呼び込めない客がいる(私です)ので、物語の広がり・深み・変化を与える意味ではあった方が良いのかも。これがなかったら、淡々と物事が起こった順番で描くだけになっちゃうので、「これってどういう意味だったんだろう?」と考える余幅が減りますよね。
個人的には、第4パートで母親が死んでから「おっ、いよいよ本番か? でももう残り時間少ないよね?」と思わせたところで一番後味悪いバッドエンドが用意されていたところに惚れました。この男にハッピーエンドが用意されるほど、世の中ってなぁ甘くないんだね。
登場人物の全員を平等に地獄に落とす、誰にも寄り添わない、その一貫した態度に「自分はイヤな人間だから、イヤな映画を作った」という監督の覚悟が感じられます。
(6) 冒頭の飛び降りシーンの意味
今回、改めて解説を交えながら見返してみて気づいたことがあります。
基本的には「全て事実」というスタンスで映像を見ていたのですが、1点だけ気になっていたところが。
冒頭の、セラピストから帰るボーが出会った「飛び降り自殺」。
母親へのお土産のマリア像を買った直後、街の人のざわめきが気になって行ってみると、ビルの上にスマホを向ける野次馬が「あいつが飛び降るように煽ってるんだ」と笑うんですね。実際に飛び降りたのかどうかは描かれない。
なんとも醜悪で、後味の悪いシーンです。
他の不条理要素は「ブラックコメディとして笑える」んですが、このシーンだけ妙に毒々しくて、卑劣で、本当の意味で嫌な気分になりました。
ボーの生活は全て母親が用意したトゥルーマン・ショーですが、ここまで用意したとは思えない。(もしも「これを見過ごした・助けなかったボーの罪」を断罪するのであれば、最後の裁判で言及するはず。)
このシーンは何だったんだろう、と小さなモヤモヤが残りました。
そして改めて、ラストのボーを見て、これはボーだったのではないか。という気がしたのです。
アリーナの湖でボートが転覆する寸前の、「助けて」と叫んでも誰も動いてくれず、諦めたボーの表情。
この「諦め」のシーンが思ったよりも長いのです。
そしてこの時のボーの表情は、「こんなに助けを求めてるのに、誰も助けてくれない、ぴえん」というだけではない。何かを悟り、絶望し、諦め、覚悟を決める表情。
ボートの転覆は完全にボーの意志に反する事故(?)だったと思うのですが、ボーは自ら、ビルの上から飛び降りたのではないでしょうか。
…というか、野次馬に煽られてビルの上から飛び降りた男と同じ心情でボーは生きることを諦め、ボートの転覆という奇想天外な手段ではありつつもボーも死を選んだ。
…この場合の「選んだ」というのは、「周囲に突きつけられて選ぶしかなかった」ことを、まるで自らの選択のように言われてしまう状況ですね。ロジャーに「君の選択だ」と言われたのと同じように。野次馬に自殺を煽られた男に対しても社会は「あいつが飛び降りることを自ら選んだ」と言うでしょう。
ボーの場合はファンタジー満載の「裁判からの、ボート転覆」でした。
ボーではない、でもボーに限りなく近い別の男の場合には、それは「野次馬に煽られた飛び降り」でした。
決してボーだけではない。ボーと同じように、聴衆の視線に晒されて「自らの選択で」死を覚悟し、その死さえも聴衆から笑って消費された男は、この映画の中にもう一人いたのです。
もし「この物語は全てボーの幻覚」という解釈をするならば、冒頭の飛び降り自殺をした男こそボーの実体、という見方もできます。(私はあくまで「同じ状況に見舞われた別の男」と思っておきます。)
(7) 『不思議の国のアリス』な展開
解説記事にも書きましたが、改めて。
『トゥルーマン・ショー』等、いろんな映画作品のオマージュが満載なこの作品ですが、私はやっぱりアリスを推したい。
デス・シティは、ウサギの穴から落ちて不条理な世界に戸惑うアリス。不条理の中でもなんとか生き延びなければいけない、とアリスはめげずにウサギを追います。デス・シティに戸惑いながらも実家になんとか帰ろうとするボーです。
グレース家での一瞬の平穏は、花園でみんなで合唱するシーン。楽しく歌って心を通わせたかと思った矢先に、アリスは「花ではない」という理由で花たちから追い出されます。トニを死なせてグレースの恨みを買ったボーそのままです。
“森の孤児”は、絶望したアリスがチシャ猫と再会するシーン。途中、森の中で道に迷ったアリスは絶望します。「最初からウサギを追いかけなければよかった、お姉様の言うことをきいて、いい子にしていればよかった」と泣きます。そこへチシャ猫が助けに来てくれる。まさに、演劇の内容に没入して「僕は臆病だった」という罪を告白するボーです。
たどり着いた実家は、まさにウサギを追ってたどり着いた、ハートの女王のお城。アリスはわがままな女王に付き合わされ、クリケットに興じます。しかし王国の人間はみーんな、女王の八百長。アリスは理不尽に負かされます。「わがままな女王」に敗北する様は母とボーの関係そのままだし、ハートの女王の横で縮こまっている王様は、まさにボーの父親ですね。
最後の裁判。アリスは女王の顔に泥を塗った咎で一方的な裁判にかけられ、「首を刎ねよ!」という女王の命令でトランプの兵隊から追われます。絶体絶命…という時に目を覚まし、全ては夢だった、というオチですね。ボーも一方的な裁判で断罪され、誰にも助けられることなくバッドエンドを迎えます。
…では、これは全てボーの妄想による想像の世界かというと…そんな救いのある種明かしは作品の中にはありませんでした。
ボーは自分の罪の意識に苛まれ、母親にもそれを糾弾され、社会は手を差し伸べてはくれず、ただ息のできない真っ暗な水の中で溺れ死ぬしかなかったのです。
(7) これは「私の物語」か?
ある意味、ボーのような気持ちで生きている人もいるのではないでしょうか。
世の中を操って、自分をこんな酷い目に遭わせている黒幕がいる、とか。
母親の育て方のせいで自分の人生は全て狂ってしまったんだ、とか。
みんなが自分を見て、監視して、笑い物にしているんだ、とか。
みんな本当は分かっているのに分からないフリをして自分を苦しめてるんだ、とか。
100% そう思ってはいなくても、うっすらと、「社会のせいだ」「親ガチャ・〇〇ガチャに外れたせいだ」と思って生きている人にとっては、ボーとボーを取り巻く世界は、自分と自分を取り巻く世界に見えるのではないでしょうか。
まるで、母親が食べるものから住む場所まで、人間関係やセックスまで、全てを監視して管理して支配しているかのように、自分の人生が自分ではない誰かに何から何まで管理されて支配されている気持ちになって、苦しんでいる人は少なくない気がします。
監督が私たちに「お前のことだぞ」と指さしたのは、「観客」の私たちだけではない。「自分がボーだと思っている私たち」に向けても、指をさしているように感じるのです。
解析ページがあります
『ミッドサマー』の時と同様、「観た人限定」の解析ページがあります。
個人的には解釈違いが多かったです。「公式がそう言うならそうなんだろうけど、私は違う見方をするかな」って距離感で眺めました。
そのうち消えてしまうかもしれないので、お早めにどうぞ!(ミッドサマーのおもしろページたちも今では消えちゃったし。)
観た人限定完全解析ページ|映画『ボーはおそれている』絶賛上映中
さて、語りたいだけ語りました。
他にも言いたいことがあった気がするけど、ひとまずこんなところです。思い出したらまた追記するかもしれません。
『ミッドサマー』のネタバレ記事は劇場で鑑賞したあとの勢いだけで書きましたが、今回はサブスクで見直しながら書きました。それによって普通に鑑賞した時には気づかなかった要素にいろいろと気づけたので、やって良かったです。
冴えないオッサンが主人公なせいでイマイチ受けないこの映画、語れる要素、語りたくなる要素は満載なのでぜひ見てほしい!!
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ミッドサマーの全力ネタバレはこちら↓