ごめんなさい。私にはダメでした。ヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演、カンヌ受賞作『PERFECT DAYS』。
- トイレが綺麗すぎ問題
- まだ、ツッコミ足りないところがある
- 現代版『鉄道員(ぽっぽや)』はキツイて
- 全てが主人公にとって都合の良い世界
- 70代のオジイサンの夢
- 70代のオジイサンが切り取る煌めき
- 事前に見ていて良かった動画
事前の評判はさんざん聞きました。
好意的に解説しているようなラジオやYouTube動画も観ました。
そのおかげでかなり点数は上がった。解説を先に聞いていなければ、繊細な描写の意図が理解できなかったし、マイナス点についてもある程度の心の準備ができた。
ネットでのネガティブ評価も聞いてました。
曰く、「トイレが綺麗すぎる」。
「トイレ清掃員の生活を美しく描きすぎ」。
「東京のデザイントイレのプロモーション色が強すぎる」。
どれも分かります。でも、そこはちょっと反論させてほしい。
トイレが綺麗すぎ問題
逆に、逆にね、外国人監督で、こんなアート色の強い作風の人が、きっったねーーー東京のトイレを撮ったらそれはそれで嫌じゃない? 世界一綺麗な日本のトイレをあえて汚く撮られたら、「他国を貶すって何様?」「都会の汚れきったトイレなんかわざわざお金払って映画で観たくもねぇわ」ってなりませんか?? 「さぞ、おたくさんのお国の公衆トイレは綺麗に使われてはるんでしょぉねぇ、日本人も見習わせてもらわなアカンわぁ」って心の中の京都人がうずいたりしませんか?? 「そうそう、東京のトイレってきったねーのよ!リアルで良し!!」って親指立てれる人はどれくらいいるでしょうか…。
なので、きったねーーートイレを描くのは日本人監督にお任せして、ヴェンダース監督がわざわざ極東まで来てやる必要はないと思うのです。
東京のデザイントイレのプロモーションが端を発した作品であることは変えられない事実なわけで、それならば「まぁこの経緯があるなら、そうなるわな」と刀を納めるのも良いでしょう。裏を返せば、そうやって背景を知って歩み寄らなければ、作品単体としてはとても受け止められる代物ではないということでもあります。
…と、今こう書いているのは、インターネットの皆さんが私の分まで「トイレ綺麗すぎ」ってツッコんでくれたからです。もう私の中では胸がすくくらいにツッコまれたので、私からは言わなくていい域に達した。みなさんありがとう。
まだ、ツッコミ足りないところがある
もうね…この作品を観た最初の感想はね…
50年後に観たかった。
やっぱりね、コンテンツを楽しめるには、適切な距離感ってあると思うんです。
近すぎると「不気味の谷」みたいに、微細な違和感や価値観の違いが気に障って楽しめない。かといって遠すぎると理解できない。
どれくらい古い作品か。
どれくらい馴染みのない文化圏の作品か。
どれくらい現実からかけ離れた空想世界の作品か。
その「距離」が近すぎると、違和感が勝って見てられなくなる。
ヴェンダース監督作品は『ベルリン天使の詩』しか観たことがないのですが、あれは40年ちかく前、ドイツの、しかも「天使」というファンタジーの存在だったので全て受け入れられました。
きっと『PERFECT DAYS』でも監督の作風とか、好みとか癖とかは当時とそれほど変わってないんじゃないかと思います。
しかし、東京、2023年、リアル路線。
近い近い近い近い近い。
違和感、目立ちすぎ。
「いやそんなことするかい!」
「いやそんな家住むかい!」
「いやそんなやつおるかい!」
「いやそんなこと言うかい!」
の連続で、いちいち集中力が途切れてしまう。
50年経ってみれば、歴史物として楽しめたと思う。でも今はキツい!!
現代版『鉄道員(ぽっぽや)』はキツイて
私、だめだったんです。ぽっぽや。
自己愛と自己憐憫のニオイがしすぎて。
人が嫌がるようなキツイ仕事を、淡々とこなすオレ。
むしろ人との関わりが上手くない自分には、こういう仕事の方が向いている。
世の中は派手な仕事、目立つ仕事、綺麗で変化があって成長できることが「やりがい」なのかもしれないけど、オレにとっての「やりがい」は違う。日々淡々と、雨の日も風の日も変わらずキッチリ良い仕事をすることにこそオレは「やりがい」を感じる。それに、毎日は変化に富んでいて「同じ1日」なんてない。(オレは繊細で感性が豊かなので、そういう微細な変化に喜びを見出すことができる。(浮ついたお前たちとは違って。))
そんな、他の奴らとは違うオレのことを、女が一目置いてくれる。「あなたって他とは違うわね」とついついオレを目で追い、他の男よりもオレといることを選び、特別扱いし、憎からず思う。しかし明確に告白されたり深い関わりにはならないので、オレが苦手な「人間関係のイザコザ」とか「価値観の違いを擦り合わせしながら共存する」とかはしなくて良い。
オレは無口なだけで、人が好きだし、優しくて善人だ。困っている人は助けるし、困った人も受け入れる。
誰にも理解されなくたって仕方ない。…と言いつつ、美女たちは興味を示して理解してくれる。その上で、自分を放っておいてくれる。自由にさせてくれる。
「自分、不器用ですから。」
どんだけ都合いいんだよ!!!!
この映画、とにかく主人公にとって都合の良いことが多すぎる。というか、それで塗り固められている。
全てが主人公にとって都合の良い世界
なんかオレ、センスが良い、みたい
- 自分が聴いていたカセットはプレミア価値のつくものばかりで、自分の趣味嗜好は若い芯のある個性的な女の子だけでなく、業界やマニアにもしっかり評価される、芯を食ったセンスの持ち主である。
- 選ぶ本も、古書店のオーナーが一言コメントしたくなるものばかり。とにかく何かにつけ、自分には審美眼が備わっている。
- しかしそれらの趣味はあくまで自己満足、自分の日々のささやかな楽しみのためにやっているのであって、決して自分からそのセンスをひけらかしたり、感想を人と言い合ったりしない。あくまでオレは慎ましい。ただ周りが勝手に、自分のセンスを褒めて評価してくる。オレはなんにも言ってないのに。
70代になっても、ほっぺたを舌で内側から押しながら「なんかぁ〜、オレはぁ〜、なんとなく選んだだけなんスけどぉ〜」をやるのかよ!!! 中学生かよ!!!!
女は必ずオレを目で追う
- 同じ公園で昼食ルーティンが被っているだけの女性すらオレを目で追う。男性は見ない。女性だけが見てくる。もちろん「ひゃ〜、あの人イヤ〜」という目ではなく、好意的な目で。
- 後輩が狙っている若い女の子も、後輩ではなくオレの方に関心が向いてしまう。キスとか強引にしてくる。オレにはそんな気さらさらないのに。ま、若気の至りとかいっときの気の迷いだろうな、やれやれ。(ここで後輩に対して申し訳ないとか後ろめたいとかいう考えは一才ない。そして後輩に「恋路の邪魔をするな」と敵意を向けられることもない。全てが都合の良い世界だから。)
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スナックのママもどうやら常連の中でオレだけを特別視しているらしい。そして相手はオレほどインテリではなく、本について対等に語る相手ではない。あくまでオレを「インテリなのね」と持ち上げてくれ(オレよりも下位の存在で)、オレが何も気の利いたことを言わなくとも「そんなところが良い」と居心地良さを感じてくれる。ラストでは元夫も公認の関係になったことで、誰にも後ろめたいことなく、この「常連以上、恋人未満」のポジションを甘受できる。
- 姪は自分を全面的に信頼して、助けを求めてくる。「庇護すべき対象を護る」という、頼もしい男の自己イメージを満たしてくれる。しかも無防備に着替えてラッキースケベまで提供し(そのくらいオレを信頼してくれている証拠)、銭湯では常連たちの注目の的になってトロフィーワイフの役割までこなしてくれる。(訳のわからない詩のような会話をやってくれる点も付け加えたいが、ここは監督の作風であり美点だと思うので水を差すのはやめよう。)
- これらの女に取り巻かれた上で、誰一人に対しても、責任をとる必要がない。誰とも家族や恋人の契りを交わしてはいないし、深いドロドロした人間関係に足を突っ込んだりもしない。みんな、女たちは自分の気持ちの良いところをウロついたかと思うと、あっさり去って行ってくれるので自分は自分の聖域であるこの日常を続けることができる。誰も自分を変えようとしてこない。最高。
あまつさえ『鉄道員』のほっぺチューを再現するとか、どんだけ高倉健はオジイサンの憧れの的なんだよ。
登場する男は自分の自信を傷つけない
- 後輩の男は、前途ある若者で自分には眩しい…とかでは一切なく、自分よりも圧倒的にクズ。そして意図せず若い女との関わりを献上することになる。しかしオレを慕っているし、金を貸したことで上下関係も確固たるものになった。「クズに好かれるオレ」だと類友で自分までクズみたいになってしまうが、後輩は根は優しくて良いヤツなのでそれに好かれるオレも根が優しく善い人間なのである。
- ホームレスのおじさんに対しても「彼だってオレと同じように、自分の幸せな毎日を続けているんだよな、ウンウン」と思わせてくれる。誰にでも対等で、偏見がなく、優しい眼差しを向けるオレ、善人。
- 「仕事がデキる」存在は、女性であって男性ではない。後輩の穴埋めで配属された清掃員は、テキパキした雰囲気の女性。トイレ清掃の仕事において自分の右に出る「男」はおらず、女はチャキチャキしたしっかり者としてオレの平穏な生活を支え、自分の間合いに入る男は必ずナヨナヨヘナヘナクヨクヨしていなければならない。
- スナックのママの元夫はこざっぱりしていて社会的地位は上のようだが、オレと同じように煙草にむせ、オレが酒を提供し、幼稚な遊びを一緒にやり、弱い部分を曝け出してくれたので社会的地位やマッチョな軸での上下など一切気にせず対等な者同士として話せる。なんなら相手の方が自分に頭を下げてくる。(これを、「小綺麗で颯爽としたオフィスワーカーの弱みの部分・人に見せられない影の部分を、見て、尻拭いしているのはトイレ清掃員だ」という見方をすればスパイスは効いてくるけど、たぶんそういう意図はない気がする。)
- 社会的地位や「男性性」においてオレを脅かすような存在は徹底的にモブ。酔っ払いやサラリーマンとはもちろんすれ違うし、空気のように扱われることもあるが、でも彼らは自分の人生や生活に一切関わってこない、黙殺できる存在。
しかし、観客には分かる。
社会的地位が高く、権力を持ち、自分よりも圧倒的に上位な存在に対峙したときの主人公・平山は、「お父さんに顔見せに行ってあげて」と妹に言われた際のちっちゃく縮こまって俯いて首を横に振ることしかできない、臆病な小動物のようになることを。(そしてそれは戦前生まれの父親が植え付けたトラウマのせいなんだろうなと思うと同情はできるし、父親と同じような男にはならなかった彼を讃えたいとも思う。)
何一つ責任を負わなくていい
- 前述のとおり、女たちは自分の周りを蝶のように漂うが、自分に責任を迫ってきたりはしない。家族、結婚、育児といったライフイベントを悉く踏まなくて良い。(ただ、作中で描かれないだけで一通りのライフイベントを経た上で今ああなっている、と想像を膨らますとそれはそれで妄想が捗る。)
- 仕事で責任ある立場にいる同年代はたくさんいるが、自分はいつどうなっても代えがきく清掃員。多くの同年代の社会人たちが味わっているであろう「年下上司にペコペコする」という辛酸を舐める経験もなく、チームや若手の世話をする必要もなく、でもオレはオレの仕事に誇りと責任感を持って実直に清掃をこなしている。
- 家は今にも朽ち果てそうな文化住宅。もちろん自分は家を乱暴に使ったりはしないけど、でもどう使ったってどうせ早晩取り壊されるような建物。どう暮らしたって誰にも文句は言われない。
- 世の中の流れや時代や政治も、自分とは関係ないし、社会をどう作るかということにも関心ない。インテリなのに新聞は読まない、テレビでニュースも見ない、ネットなんてもってのほか。選挙投票にも行っているか怪しい。
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身体を壊したりして仕事に行けなくなればあっという間に生活は立ち行かなくなるのだが、その時はその時。
- 姪は、自分が嫌気さして飛び出した強権的な金持ちの実家で自分と同じように苦しめられ、自分がしている自由な生活に憧れ、自殺すら仄めかすほど助けを求めているが、しかしその苦しみから救い出してあげたり話を聞いてあげたりはしない。同じ思いをしているであろう同胞に対する共感や協調はない。
- 自分が興味を惹かれるのはホームレスのダンサーのような「世間の評価や人の目を気にせず自由を謳歌している人」であって、「実直に社会を、他者の世界を支える」という点に関心はない。毎朝飲んでいる缶コーヒーの、ボロボロの自販機にいつでも自分の好みのコーヒーが補充されている、それをしてくれる人へ思いを致すことはない。(そうやって「ささやかに見えないところで、今日も円滑に社会がまわるよう支えてくれる労働者」に視線が向けば、ミスチルのHANABI的な美しさもあっただろうけど、この作品はそういうことではない。)(なんなら、CM契約の事情で主人公が飲んでいるコーヒーが「朝専用ワンダ」ではなく「ボスのカフェラテ」、夜の酒が発泡酒やストロングゼロではなく「ハイボール」というところも、「社会を支える労働者」ではなく「オシャレでカルチャーに精通したインテリ」の世界に主人公を置いてしまったのが不運としか言いようがない。)
とにかく全てにおいて、責任を放棄して生きていたい。
誰からの感謝も賞賛も得られない代わりに、誰にも責められたくない。(あ、でもなんやかんやみんなには慕われたい。それは社会的な功績のためではなく、趣味のセンスと善人ぶりによって。)
ただし、それは「責任ある立場になりたくてもなれなかった」のではなく、「順当にいけばそうなれたのに(なんなら一度はなったのかもしれない)、あえてその立場を放棄した」のがいい。(これ重要。)なりなくてもなれなかったなら、僻みややっかみで心穏やかでないだろうけど、家族も仕事も地位も自ら手放して自由を謳歌していたい。
そして最後には、ブルーシートで覆われた空き地のごとく、「あれ?ここの清掃してた人、誰だっけ?」「そんな人いたっけ?」というくらい、世間から忘れ去られたい。自分の銅像や記念碑を建てるような名声を追い求める人生ではなく、みんなから忘れられて放っておかれる人生がいい。
…もうこの厭世感に、黙ってても周りが放っておいてくれないほど、地位と権力と金があって小賢しい奴らが擦り寄ってきたり、ルックスが良くて女が近づいてきたり、センスが良くて趣味友達になろうと絡まれたりしてきた彼の過去が香りすぎる。
それでいて、「周りの目や世間の評価は気にしません」なんてカオをしながら、それでも「自分よりも下のものからは慕われたい」「女からは好かれたい」「自分より上のものからは評価されたい」という願望を全て叶えている、その往生技の悪さが目に余る。
70代のオジイサンの夢
まぁ、もういいです。監督が傘寿も近いと思えば、そりゃ、自分の好きなように好きなモン撮ってください。
もうね、おじいちゃんの作りたいものは、イヤなことなんて起こらない、自分の夢の世界だったんだね。
イヤなことは、あるとすれば「酔っ払いが清掃中の立て札を蹴飛ばす」「迷子の子どもを保護したら、母親が自分の握っていた手を除菌シートで拭く」「信号無視する奴がいる」という程度。(表現の都合でカットされてはいるけど「汚物まみれのトイレ掃除」もそこに加わっているのかもしれない。)
そういう、通りすがりの匿名の人間からの悪意みたいなのはサラッと流せる。迷子の子どもは自分に手を振ってくれたし、ちゃんと自分の善性は、自分と関わる全ての人に伝わっている。
でもそれ以上の、他者と深い関わりを持った上での、すれ違いとか悪意とか敵意とかそういうのはもうヤダ。もう無理。許容できない。
…歳をとると、どんどん色んなことが達観できて許せるようになっていくと思っていたんです。
でも、ヴェンダース監督の半分の年齢を生きて分かるのは、無理なことはどんどん無理になっていくこと。
人生に対して、世界に対して「もうええでしょう」が増えていってしまう。もうイヤなことを耐えられない。あ、街でなんか当たり散らかしてる老人ってこうやって生まれるのか、という予兆を自身の内に感じる自分が怖い。
だから、この作品世界の中で、登場する人がとにかく善人ばかりだというのも分かる。クズはいても悪人はいない。
「こうだったら良いよなぁ」「こんな70代、理想だよなぁ」という、シニアの夢が詰まっている。
そりゃ、汚いリアルなトイレなんて見たくないでしょう。
そりゃ、男性観・女性観も古いでしょう。
そりゃ、父性のトラウマから逃げたいでしょう。
それが今の70代ってモンでしょう。
半分の年齢の奴が共感できるわけないでしょう。
綺麗なものだけに囲まれていたい、心地よいものだけ見ていたいでしょう。長く生きてきて、現実のイヤな部分は散々見飽きたんだから。
70代のオジイサンが切り取る煌めき
それでもね、この映画で感銘を受けた部分がないわけではない。
世界的な監督と、日本屈指の名俳優を起用して、そりゃハッとさせられる部分がないわけないんです。
個人的に印象的だったシーン3つ(逆にいうと3つしかない)。
ほっぺちゅーは夢に見ない
高倉健すぎてドン引きしたほっぺチューのシーンですが、その夜の夢に出てこなかったことには「ほほぉ」と思いました。
主人公が眠るシーンで挟まれるモノクロ映像、あれは平山が眠りながら見ている夢だというのを事前に見た解説動画で言っていました。(この解説を知らなければ「???」になりそうだったので、知っていて本当に良かった。)
姪とのサイクリングは夢に出てきます。
でも、若い女の子からのほっぺチュー襲撃は、夢で反芻するようなことでなかった…主人公の中で思い出してニタニタするような出来事ではなく、あくまで若者の突飛な行動にぶつかった交通事故みたいなもの…と、その日の銭湯で整理したのかな、と思いました。
そのあたり、主人公・平山がキモジジィになるのをギリギリで踏みとどまってくれて、そういう粘っこいムッツリスケベは無し、というキッパリした清潔さには「70歳の年の功」を見た気がします。
そう、あくまで「世界は平山にとって都合が良い」けれども、「平山自身がそれをニヤニヤニタニタ悦んでいる訳ではない」んですよね。だから尚のこと罪が重いが。
止まない雨はない
さて、世界の全てが都合よくできている平山にとって、唯一思い通りにならなかったのは「トんだ後輩の穴埋め」です。
クズの後輩がいきなり仕事を辞めたことで、彼のシフトのぶんまで自分が働かなきゃいけないことに。仕事は夜遅くまでかかり、クタクタになって帰ります。無口な彼が珍しく声を荒げて会社にクレームを入れるほど。
しかし、思ったより早く代わりの要因が来てくれる。前述のとおり、それは仕事のできそうな女性で、これでもう一安心。
まぁ、これまた主人公にとって都合の良い筋書きではありますが、「仕事におけるトラブルなんて、いつか解決するさ」という年長者ならではの悟りを見た気がして、これには勇気をもらいました。長く生きれば、どんなトラブルも「ま、どうせそのうち過ぎ去るし」「会社に言うことはキッチリ言って、その上で自分はやれるだけのことをやる」「そうすればいつかこの雨も止む」という心構えで迎えれば良いのかもしれません。
70年分の人生が、あるときふと、のしかかってくる
主人公・平山はさすがに70歳ではないとは思うけど、でもとにかく。
人生の中で良いことも悪いこともあった。
日々の一瞬一瞬にだって、良いことも悪いこともある。
これまで辿ってきた人生が、ある瞬間にふと、両肩にズシンとのしかかってくる。
そしてそれは歳を取ればとるほど、重く、多くなる。
楽しい思い出も苦しい思い出も、快楽も後悔も。
最後の役所広司の泣き笑いはそういうことだったと、私は受け取りました。
決して辛くて泣いている訳ではない。
不幸を嘆いている訳ではない。
ただ、いろんなことがあった。それが一気にぶわっと来た。
そういう日が、おじいさんにもなると増えてくるのかもしれない。
自分にもいつかそんな日があるかもしれない。
人生は笑いだけではないし、涙だけでもない。両方あって、それでこそ人生なのだと。
そんなことを、表情アップの長回しだけで表現できる役所広司の演技力はすごい。
事前に見ていて良かった動画
感想は以上です。
映画を観る前に見ていて良かった!と思った動画はコチラ。
世の中では「ネタバレ禁止」の風潮が強いですが、時間とともにいろんなものを蓄積した自分が作品と対峙することで良く見えるということもあるので、平気な方にはオススメです。
好き勝手言ってすみませんでした。
