旅するトナカイ

旅行記エッセイ漫画

【映画】いま『七人の侍』を見るーなぜ攫われた妻は火に飛び込んだのか

ようやっと観ました。七人の侍

かれこれ20年くらい「いつか観なきゃ」と思っていたのですがなかなか踏ん切りがつかず(だってむさっ苦しい白黒映画なんだもの)、ようやく鑑賞。

 

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いやーーーーー。

 

 

 

素晴らしいですね。

 

 

 

もうほんっと、卓越したエンタメ。

全ての少年バトル漫画のオイシイ要素を濃縮還元したみたいな一本で、現代のコンテンツもこの映画から派生し受け継がれてきたのだと、そのDNAを強く感じる。

 

 

目次

 

 

 

あらすじ

戦国時代。貧しい農村は、野武士たちの襲撃に怯えていた。

なんとか対抗しなければと、街に出て護衛の侍をスカウトしにいくことにする。

しかし農民がお侍さまに話しかけるのも畏れ多い時代、金もない見返りもない農村の護衛など誰が引き受けるか…とスカウトは難航。

手ぶらで村に帰ることは村の全滅を意味する…。途方に暮れていたある日、農民たちは街のはずれの人質立てこもり事件を、1人の中年浪人が見事に解決した一部始終を目撃する。

 

 

「人間」がめちゃくちゃリアル

いや、現代人が戦国時代の描写を「リアル」なんて言うのは語弊があるもいいとこなんですが。

でも当時の階級社会や常識はとても勉強になるし、現代人の感覚で見ても「そりゃそうだよなぁ〜」と思うことばかり。

 

街にスカウトに出た農民たちが、雑踏を眺めながら道行く浪人たちを眺める。

「この人は」と思った浪人を見つけたらその男の前に飛び出し、土下座して「お侍さま、お侍さま、どうか聞いてくだせえ」と話しかけるのである。

同じ街にいる人間同士なのに、地位が高い者の前では話しかけるだけでも道にひれ伏さなければならない。現代では考えられない社会常識である。

 

そんな社会なので、スカウトは思った以上に難航。

観客としてはさっさと「七人の侍」が勢揃いして村に帰るのかな〜と思っていたのだが、なっっっかなかストーリーが軌道に乗らない。

立てこもり事件を解決した島田勘兵衛に声をかけていよいよ仲間集結かと思ったら、この勘兵衛も全然乗ってくれない。

「そんな負け戦、やるわけないじゃん」てな感じで暖簾に腕押し。(そんな勘兵衛を心変わりさせるのが同じ店にいただけのゴロつきたちなんだから、物語の起こし方はこんなやり方でもいいんだとハッとさせられる。)

 

自分が子どもだったら「オイオイ、農民が可哀想じゃん、さっさと受けなきゃ話始まらないよ」と思っただろうが、この歳になると「そうだよね、自分がフリーランサーで、しかも仕事は命懸けとなったら、こんな依頼、同情だけで受けるわけないよね…」と、すごーく腑に落ちてしまう。

ストーリーの都合のためにキャラに変な動きをさせない。自分がこの場にいたらきっとこうするだろう、という行動を全ての登場人物が全てのシーンでしてくれるのだ。

この、時代を超えて共感を呼ぶ人間描写こそ、本作が史上最高の映画の一本に数えられる所以なのだろう。

 

 

古すぎるから想像する、文学作品

この映画を現代に観る最大の欠点に「声が小せえ」というのがある。

小さいというか滑舌が悪いというか、モゴモゴもこもこ喋っていて、何を言っているか分からない。昔の言葉だからとかいうレベルじゃなく、ホンットに分からない。

 

でも、だからこそ想像する楽しみがある。

 

 

冒頭、「野武士が稲の収穫の季節を狙ってこの村を襲うつもりらしい」という報せを受けた農民たちがみんな集まってメソメソ泣く。

なにやらモニョモニョと口々に言っているのだが、何を言っているかは分からない。

でも想像で大体のことは分かる。

 

苦労して育てた米を武士に略奪されること、米だけでなく女を攫われること、さらに命まで取られること。

過去に略奪に遭ってなんとか立て直してきたのに。

過去の略奪で受けた心の傷。

理不尽な税金に苦しみ、理不尽な天候に苦しみ、理不尽な自然の気まぐれに苦しみ、その上、理不尽な暴力にまで苦しめられる。

 

野武士に襲われるのが怖いというだけじゃない、「野武士に襲われる」とはどういうことなのか、この農民たちはどんなものと日々戦っているのか、そんな情況をすっかり感じさせるのだ。ぜんぜんセリフは分からないのに。

 

 

「おれたち農民は、我慢しかできねぇ」

 

モニョモニョとよく聞き取れないセリフの中で、はっきりと聞こえたセリフがグサッと胸に刺さる。

 

 

直接的には描かれない、セリフになっていても聞き取れない、だからこそ彼らの気持ちを自分に引き付けて想像してしまう。

完全なエンタメ活劇であるはずのこの作品は、時代を経た今だからこそ、行間から彼らの悲しみや辛さを想像する、まるで小説を読むような視聴体験になる。

エンタメであり、文学なのだ。

 

 

攫われた妻の救出

中でも文学的なシーンが、農民の中でメインどころである利吉とその妻のエピソードである。

(めちゃくちゃ良いシーンなので、未視聴の方は以下、ネタバレ注意。)

 

数十人の村の中で、いちはやく「侍をスカウトしよう」と提案し、浪人探しに繰り出したイケメン。

なんつったってイケメン。

 

この利吉、どうやら暗い過去があるらしい…ということはちょいちょい漂うのだが、しかし侍が打ち解けようと「何かあったのか」と聞いても何も語らない。

語り下手で、農村に生まれた男が、自分の弱みを開示することの難しさ。

利吉は彼のつらい過去を誰とも共有することはできない。

 

でも人一倍、過去にもこの村を襲った野武士たちには恨みがあるらしい。

 

かつ、イケメンでそれなりの年齢なのに、妻も子もいないらしい。

 

それだけで何かが察せられてしまう。

 

 

さて、稲刈りシーズンまでの猶予期間に村で戦準備を固める頃、野武士の偵察隊が現れる。

彼らを捕らえ、野武士のアジトを聞き出すことに成功。

 

精鋭部隊と、道案内役の利吉とで山奥のアジトへ。

アジトに辿り着き、こっそり小屋の中を覗くと、…そこには女たちが寝ている。

 

ここは野武士に攫われた女たちの寝床だった。

 

そしてその中でひときわ美しく着飾った女性。

 

それが、利吉の妻だった。

 

以前、野武士に襲われた際、村を立ち去ってくれる代償として生贄に渡された美女…それが利吉の妻だったのだ。

美しい姿で、妻がまだ生きていることを知った利吉。この奇襲は、妻を取り返すチャンスでもある。

 

 

味方の奇襲は見事成功、アジトの建物に次々と火を放ち、逃げ出してきた野武士たちを斬り落とす。

 

火に驚いた女たちも次々に小屋を逃げ出していく。

 

利吉の妻も、燃え崩れる小屋から走り出た。

 

 

…が、外にいる利吉の姿に気付き、ふたたび火の中へと飛び込んでいく……。

 

利吉は妻を助けようと追うが、仲間たちに力ずくで止められ、火が燃え広がる中に消えた妻をただ呼ぶのだった……。

 

 

なぜ妻は火に飛び込んだのか

利吉の姿に気付いた妻は、なぜ逃げてこなかったのか。

一度は逃げようとしたのに、なぜ再び火の中に身を投じたのか。

 

 

山奥の山小屋にあるアジトで妖艶な美しさを保つ彼女は、生まれ持った美しさもさることながら、ひときわ野武士の親分に可愛がられていたに違いない。

着るものや食べ物にまで気を遣われ、慰み物にされつつも、愛人として他の女よりも一等良い扱いを受けたのだろう。

 

もし彼女が、この環境に絶望して死を望んだのなら、小屋から逃げ出そうとはしなかったはずだ。

また逆に、いつでも夫・利吉を想い続け、いつかは逃げ出して再会したいと願っていたのなら、喜んで利吉のもとへ駆け寄ったはずである。

 

彼女が夫と再会したからこそ自ら死を選んだのは、そこに、もう夫のもとへは帰れない心に変わってしまった自分を見たからだ。

 

 

もちろん時代が時代だけに、一度でも不貞をはたらいた妻は村にそうそう受け入れてはもらえないだろう。いろいろと噂されたり陰口を言われたりして、平穏な生活に戻ることはできないだろう。

 

 

しかしきっと、それだけの問題ではない。

 

 

村で収穫した米の身代わりとして、自分という一人の人間を差し出した村人たち。

一年分の米と女の一生を天秤にかけ、村人たちの命と自分の人生を天秤にかけ、自分を犠牲にした村の仲間、親戚、友人、そしてそれを止められなかった夫。

 

かたや、自分の意思に反するかたちではあれ、自分を女の中でも一級品として可愛がってくれる野武士。

一年分の食い扶持よりも、自分という人間を選んでくれた乱暴な男。

 

 

村一番のイケメンと仲良く夫婦生活を送っていたのに、野武士に攫われ慰み物にされ、こんなはずじゃなかった…と毎晩のように思うはずの彼女は、毎夜毎夜、どんな考えを巡らしただろうか。

 

 

夫を想う夜もあっただろう。

村を懐かしむ夜もあっただろう。

 

しかしそうであればあるほど、それ以上に、自分を犠牲にした村を、夫を、恨んだのではないだろうか。

村を恨むほどに、自分を可愛がる野武士への想いも芽生えたのではないだろうか。

 

年頃の女がズラリと並ぶ中で、自分の美しさを特別に扱ってくれる。

自分はアンタたちとは違うのよ…と女社会で勝利した優越感に浸らなかっただろうか。

または、攫われた境遇の者同士、歳の近い女同士の箱庭生活を楽しまなかっだろうか。

 

 

 

もう自分は、村に帰ることはできない。

 

それは貞操観念やこの時代の風習がどうこうという以前に、村よりもこっっちの方がいいや…と、自分自身が思ってしまったから。夫よりも親分の方が…と思ってしまったから。

この運命を受け入れて、そしてそこに良さを見出してしまったから。

 

 

しかし彼女の心は傷ついている。

「親分に気に入られて特別扱いされて、そんな暮らしも悪くないじゃーん」とあっけらかんと愛人に身を投じるまでの強かさを彼女は持っていない。

農村育ちで、純朴で、貞操観念の堅い彼女はそこまで自分を変えることはできない。自分を騙すことはできても。

 

自分を騙していただけで、本当はこんなのは嫌なんだ、と気付いてしまったのは、夫の利吉と再会してしまったからなのだ。

 

利吉の顔を見た途端に、彼を愛していた自分、村で幸せな生活をしていた自分、「あれこそが幸せだ」と思っていた自分が現れる。

利吉に合わせる顔がないのは、利吉を裏切り自分の価値観を裏切った自分に顔向けできないからだ。

 

自分は汚れてしまったから夫の元に帰れない。

ただ他の男に手をつけられたというだけでなく、自分の心まで自分が「汚い」と感じるところへ投じてしまった、だからもう帰れない。

 

 

村にも帰らず死にもせずに第三の人生を生きる道もない。

自分で自分を裏切ったしまったから。

 

 

妻が燃え盛る火の中に身を投じた時、利吉は、妻の身体だけでなく、その心も人格そのものも野武士に奪われてしまったことを知るのだ。

 

 

心理考察がはかどりまくる良作

他にも語りたいシーンはいくつもある。

  • いじられキャラの菊千代が、農村出身で農民の卑しさ汚さに嫌気がさし、かといって憧れた侍にもなりきれないという、社会階層やコミュニティの間でぽっかり浮いてしまった孤独とやるせなさ。
  • みんなだいすき《孤高の剣士》久蔵が、一匹狼なのに気まぐれに仲間に加わったり、単身で敵地に乗り込み鉄砲を奪ってくる危険を侵した、その「うまく人の輪に加われないし、リーダーシップもなければ策士でもない、剣の腕だけでしか自分の立ち位置を持てない」というさだめを負う生き様。
  • 緊迫した戦争のさなかにも村で出会った美少女のことで頭がいっぱいで、下半身の要求に抗えない勝四郎のみずみずしい若さ。そう、若さ。
  • 焼き落とされる水車小屋から逃げることを拒んだ長老の、「最期」に対する目線。
  • 野武士に息子を殺された婆様の復讐心。
  • 手負の野武士を「きゃあああーーー」と興奮しながら袋叩きにする、村の女たちの恐怖と勇気と連帯。

 

もう何もかも語りたくなってしまう、人生経験を得るほどに全てのキャラクターを自分に重ねてしまう。

作文の題材としてぴったりすぎる。

 

数十年前の映画はコンプラ的にまともに見られないものばかりになってしまった中、まったく違和感なく観ることができるのもすごいところ。

そのくらい、「人間」が詰まっている。

 

 

普通にエンタメとしてもめちゃくちゃ面白いし、バトルものでありながら武士道の耽美的な斬り合いではなく、戦争ものでありながら20〜30人という1クラス分の人数でどう相手を削るかというイメージの湧きやすい規模感で、とにかく面白いのでオススメ。いや私がいまさらオススメせんでも「映画」という地球上の概念からオススメされ続けている作品なんですけども。

まだ見てないという方もいつかその時が来たら、声の聞き取りづらさに負けず、想像力をフル回転させて彼ら一人一人の人生を味わってください。

 

 

 

 

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