本を読むのが好きですが、気になるものを手当たり次第読むようなスタイルであまり節操がないので「このジャンルに絞って、数を読もう」と決めたことがありました。三日坊主なので続きませんでした。
そんな中でも比較的たくさん読めたのが、医学書院という出版社のシリーズ「ケアをひらく」。
今回はこのシリーズをご紹介します。
医学書院「ケアをひらく」シリーズ
「科学性」「専門性」「主体性」 といったことばだけでは語りきれない地点から《ケア》の世界を探ります。
というシリーズの説明文からはちょっと想像しづらいですが、要するに看護・介護・障がいといった「ケア」の分野について、ど素人でも分かりやすく・馴染みやすく書いてくれているシリーズ本です。いろんな賞に選ばれているシリーズでもあります。
この本のおかげで理解が深まった分野は多々あるし、映画・小説などのエンタメを見ていても「あっ、これ『ケアをひらく』の本で読んだことのあるやつだ!」と参照できる。
望むと望まざるとにかかわらず、このシリーズで取り上げられているような「ケアの対象となる人たち」は私たちと同じこの世界に存在しているわけで、この世界と、この世界の生き方に対する想像の地平を広げるのにとてもオススメです。
以下、いくつか私が読んだ本をご紹介します。
1. 國分功一郎『中動態の世界 〜意志と責任の考古学』
今をときめく哲学者、國分功一郎先生の本。『暇と退屈の倫理学』の大ヒットに次いで文庫化され、いまふたたび話題になっています。
文法の授業で学ぶ「能動態」「受動態」。その間の「中動態」という概念から、ものごとをフラットにとらえなおそう、という一冊。
例えば、不良にからまれ「金を出せ」と言われお金を出した人は、「出したくもない金を出させられた」わけだけれど、でも客観的に見れば自分からポケットの財布に手を伸ばして自分で判断した額のお金を相手に渡している。これは「お金を出させられた」という受動態なのだろうか、それとも「お金を自ら出した」という能動態だろうか。
相手を傷つけるような行為を「能動的に」行っているわけだけれど、でもそのような行為でしか相手と関われない・それが正しいと思い込んでいる・その行為から自分も逃げられないという「受動的な」状態だとも捉えられる。DVをする人が「自分のほうが被害者だ」というのはよく聞く話。
能動的か、受動的か。それを軸に被害者・加害者の立場を割り振って紛争を解決しようとすると、感情が絡んでしまい一向に解決に向かわない。
だからこそ一度、能動・受動を脇においた「中動態」という考え方で、「このような事象が起こった。やった・やられたは関係ない。この事象に対し、私たちはこれからどうしていこうか」と客観視しようーー…という提言だと私は受け取りました。
もちろん、この考え方は「本人が能動的にやったと言えるだろうか」という精神障害などを扱う際にもっとも威力を持つものであるがゆえに、この「ケアをひらく」シリーズに加わっているのだと思います。
このシリーズを「初心者向け」とオススメしておきながら、この一冊はかなり骨太な哲学解説がほとんどなので、正直、間はほぼ理解できませんでした。
でも最初と最後だけ読めば上記のような国文先生の「提言」自体はやさしい言葉で書かれているので、あまり全てを読破しようと思わずエッセンスだけでも感じる目的で手に取ってみてほしい一冊。
2. 伊藤 亜紗 『どもる体』
表紙のイラストを描かれている三好愛さんが好きでジャケ買いした一冊。
「どもり」といえば、映画『英国王のスピーチ』でも取り上げられています。吃音に悩まされたイギリス王が、職務のなかで何度も直面する「演説」をのりきるためにカウンセラーのもとを訪れる話。
映画でも描かれるように、歌やリズムに乗っているときにはどもらない。リズムという「制約」があることで、かえって「解放」される。この矛盾するような不思議な現象を糸口に、当事者の方のお話から「体の中でなにが起こっているのか?」を紐解いていく一冊。
「治す」とか「障害を克服する」とかそういう話ではなく、「どもるとはどういうことか? どもる時、当事者の中でなにが起こっているのか?」に焦点を当て、ひるがえってどもらない私たちでも、生きること・生活することは「自分の思い」と「自分の思い通りにならない体」とが付き合っていくことなのだと気付かされる一冊です。
とかく物事を「コントロールしよう」という圧力がはたらくこの社会で、「どもる」という「ままならなさ」を細かく細かく見ていくことは、私たち一人ひとりが抱える「ままならなさ」を見つめる視点を教えてくれます。
当事者の方が「どもっちゃう自分に、笑っちゃった」というワンシーンは、不器用な自分、ドジな自分、要領が悪い自分ーー…そういう「ままならない自分」を笑ってやってもいいのかも、と思わせてくれました。
当事者の方はもちろん、当事者以外の方にもそういった見方ができる一冊です。
3. 澁谷 智子『コーダの世界 〜手話の文化と声の文化』
コーダとは「聞こえない親をもつ、聞こえる子どもたち」(CODA = Children of Deaf Adults)のこと。
アカデミー賞に輝いた映画『コーダ あいのうた』でもタイトルになっています。
聞こえない親をもつ聞こえる子どもは、どのような生活を送るのか。
映画『コーダ あいのうた』でも、聞こえない家族は食器をガチャガチャと音を立てて使い、聞こえる主人公だけがそれを意識するシーンがある。家庭では手話でしか会話しないので、自分だけ言葉の発音がおかしくて学校でいじめられたりもする。
ファミレスに行けば、家族の中でいちばん幼い自分が、家族を代表して注文を店員さんに伝える。親の代わりにビールを注文することだってある。
親の病院に付き添って大人の病状について通訳しなければならなかったり、自分の学校の成績について話す三者面談では先生の指摘を自分が親に伝えなければならなかったり。
そういう「大人同士のやりとり」の間に常にはさまれ、子どもでいさせてもらえない辛さを抱えてしまう。
これは例えば、国際結婚をしたカップルの子どもなんかも家庭の「通訳」として大人の事情にはさまらなければならない状況は共通する。
そういった深い悩みから「あるある」的なことまで、コーダが生きる世界を知ることができる一冊です。
個人的にこの本と出会って良かったと思うことは、「手話が一つの言語であり、文化」だと知ることができたこと。
手話ならではの表現があり、その表現に美しさ・巧さがあり、決して「日本語の代替物」などではないと分かったのは生きていく上で大きな認識の転換点だった。
個人的な話になるが、最近、地域の会合でグループワークがあり、聞こえない方が自分のグループにいらっしゃった。手話通訳の方がそばについていたのだが、聴者である他の参加者が司会の人の話を静かにフムフムと聞いている間にも、その方は通訳の方と手話であれこれ雑談をしている。(たぶん、説明内容に対する感想やコメントを話していたんだと思う。)なるほど、私たちが何か思っても黙っていなければならないシーンでも、手話ならば活発に言葉を交わすことができるのだと実感した。手話だからこそおしゃべりを楽しめるシーンは、他にもたくさんありそうだ。
人気YouTube『ゆる言語学ラジオ』でも手話に関する回が最近配信されていたし、手話の世界を知る上でも強くおすすめしたい一冊。
以上、ライトめ(?)な3冊をご紹介しました。
読んだのがけっこう前なのと、私が感じた解釈モリモリで紹介したので、正しい内容はぜひ本で読んでいただければと思います。
他にも、もっと「ケア」分野ど真ん中の本もありますし、キャッチーなもの、自分も当事者かも…とドキドキするものなど、幅広くシリーズ展開されています。
好評でしたら他にもまたご紹介したいと思います。




