旅するトナカイ

旅行記エッセイ漫画

【映画】13年遅れで観た『かぐや姫の物語』、疾走シーンに度肝を抜かれた

金曜ロードショーを見逃し続け、やっとDVDを手に入れたのでようやく観ました。スタジオジブリ高畑勲監督の遺作かぐや姫の物語

 

 

 

2013年の公開から13年遅れです。

 

公開当初は予告を見て「はぁ…」て感じで、同年公開の『風立ちぬ』は劇場で見たのにこっちはスルーしてたの、今思えば申し訳ないやら悔やまれるやら。

 

今更すぎる初見の感想なので、いろいろと間違ったところがあったらすみません。

 

 

目次

 

 

 

あの爆走シーン…こ、ここ!?

予告CMでとにかくよく目にした、かぐや姫の爆走シーン。

襖を蹴破り、着物を脱ぎ散らかし、獣のようになって野山へと駆け抜けて行くかぐや姫。やわらかいタッチの日本画テイストから一転、荒々しい筆致で姫の怒りが伝わってくるシーンです。



本編を観たことはなくとも周辺の情報でなんとなーく、

  • 竹取翁(たけとりのおきな)がかぐや姫を見つける
  • かぐや姫は月のパワーで超スピード成長
  • 5人の高官に結婚を申し込まれるが、誰とも結婚したくないので無理難題で撃退
  • ついに帝にみそめられるが、キモいセクハラ野郎なのでキツい
  • 嫌になったので、月へ帰る

というざっくりとしたあらすじの認識だったので、きっと疾走シーンはクライマックス、帝のセクハラに耐えかね地球が嫌になって逃げ出すところだと思っていました。

 

 

 

 

えっ、ここなん??

 

 

 

 

思ったより早くてびっくり。

 

観ていない方にはネタバレ注意ですが、上記の流れをもう少し詳しくすると、

 

  • 竹取翁がかぐや姫を見つける
  • そのときは小さな雛人形のようだったが、家に持って帰って媼(おうな。翁の妻)が抱くと人間の赤ん坊に変わる
  • 竹取翁の家で、木工細工を生業とする山村ですくすくハイスピード成長、美しい娘に
  • 村の少年たちには「たけのこ」のあだ名でからかわれながらも、一緒に遊んで楽しい子供時代を過ごす。特に子供たちのリーダーの「捨丸兄ちゃん」とは、少女漫画のような幼馴染カップルの雰囲気
  • 翁は竹林で砂金や衣などの財宝を発見。「あの娘に見合う生活をさせよ、という仏の思し召しだ」と、都に屋敷を建てて一家で移住
  • 自然を愛し、友達と一緒に野山を駆け回るのが好きだった姫は、うってかわって「都の高貴な女性」になるための修行が始まり息が詰まる生活に
  • とはいえ持ち前のおてんばで指導係・相模のスパルタレッスンにも屈しない姫。相模には反発しまくるが、大事な場面ではビシッと決める器用&天才肌。(というか月の人にとっては朝飯前。)なかでも琴を弾かせれば天下一品、さながら平安版の藤井風

  • 翁は都の金持ちの仲間入りを果たしてテンション爆上がり、成金街道まっしぐら。妻・媼はバランスよく「金持ちの妻」の役目は果たしつつ、土間や庭でこれまでの田舎趣味を楽しんでいたおかげで、姫にも屋敷にいながらにして野山を思い出し自分らしさを保てる憩いの場はあった
  • 転機を迎えるのは、ついに姫が初潮を迎えた日
  • 成人して「かぐや姫」と名付けられる。名付け親の秋田殿はかぐや姫を一目見て身震いするほど美しい姫だった
  • 屋敷でかぐや姫の成人式&お披露目会。貴族たちを集めて三日三晩のドンチャン騒ぎ。高貴な男たちが集まって飲めや歌えややっているが、主役のはずのかぐや姫は御簾で隠された高座に孤独に座りっぱなし(結婚相手にしか姫の顔は見せないという当時の慣習)
  • さて酒盛りも終盤、酔いが回った貴族が翁にウザ絡みする。勿体ぶってないで姫の顔ちょっとは見せろよ〜、本当に美人なんだろうな〜、と。翁は高貴な人たちに絡まれてタジタジ…その様子が御簾の向こうのかぐや姫には丸聞こえ
  • 「実は不細工だったりして〜」と嘲笑されたその時。

 

 

 

 

ここです。

姫のブチ切れ猛ダッシュ。

 

 

 

 

 

ここ!? え、まさか、ここ!?

 

 

 

…とは思ったけど、でも姫の気持ちはめっっっっちゃ分かる。

 

 

 

「その日」は、ある日突然やってくる

昨日までは子どもだった自分。

男子と混ざり合って、男女の違いはあっても、対等に「人間同士」「友達同士」でいられた自分。

相手に見られるとき自分も相手を見ていて、相手が自分の話をしている時は自分も相手と話すことができる、仲間に加わることができる、そういう自分。

 

 

そんな「自分」から、ブツン!と切り離される「その日」。

 

 

自分は異性から品評され、しかもそれが裏でのヒソヒソ話にとどまらず、自分の家族(父親である翁)までがそこに加わる。

自分を今日この瞬間まで守り育ててくれた庇護者が、「女という商品」になった途端に自分の尊厳を守ってはくれなくなる瞬間。

 

 

もしも私が、男たちに殴られ蹴られていたら、父親は必死で止めに入ってくれるだろう。私の命が脅かされていたら、自分の命を投げ打ってでも助けてくれるだろう。それくらい私は父に愛され、大切に育てられてきた。

 

しかし自分の「性の尊厳」が脅かされている場面では、途端に、父親は自分を守ってくれなくなる。

積極的に加担しないまでも、「さあ…?」とキョトン顔で、男たちの機嫌を損ねまいと立ち回る。

 

 

「父から大切に育てられてきた、大切な自分という存在」は、「女という、男から消費される商品」になった瞬間、誰からも大切に扱われなくなる。

 

 

「あぁ、自分の尊厳は、ほかならぬ自分で守るしかないんだ」と悟る。

 

その、孤独感。

絶望感。

 

 

それは身を委ねきっていた親に対する失望であり、

自分の尊厳を無きものとして扱った悪ノリ男たちへの憤りであり、

「女性」に生まれたこと、「女」になったことへの憎悪であり、

もう戻らない日々への郷愁と訣別であり、

自らを守るためにこの邪悪な世界と戦っていく決意である。

 

 

 

庇護される側としてのびのびと安心して「生きて」いられた人生のテストプレイ期間はもう終わり。

これからは大人として、女として、「人間」であるために本戦を戦わなければならない。

 

周りの「味方」たちが授けてくれるのは戦うための武器ではなく、相手におもねり社会に適合するための拷問器具や、ときたまストレスを逃すためのヒーリングアイテムばかり。

私は自分のスキルと知恵だけで、なんとか、自分よりも体格が強く人生経験もコネも多く地位も権力もある男たちとやり合っていかねばならない。

 

負けた時は自分の尊厳が永久に奪われる時で、勝った時は、「今この瞬間はひとまず安心」と一瞬の安全を手に入れるだけだ。(その男も他の男も何度でも現れて、そのたびに自分は終わらない戦いを戦わねばならないのから。)

 

 

 

獣のようになってボロボロになるまで走る、かぐや姫

 

幼い彼女に、この感情を言葉にするほどの人生経験はまだ、ないだろう。

ただがむしゃらに「いやだ」という嫌悪感を、走りに変えるしかなかっただろう。

 

 

 

私にとっての「その日」はもうずっとずっと昔で、とっくに忘れて落ち着いていた。

それなのに、姫が走る姿を見て、「その日」の感覚が毛穴にまで蘇ってきた。

 

きっと他の人たちも、「その日」を通ってきたんじゃないか。大人になるための通過儀礼のように。

(恐ろしいことだが、人によっては家族自身が、普段は娘を大切に愛しみながらも、自らの邪悪さの前でキョトン顔を決め込む…ということだってあるかもしれない。)

 

 

もしかしたらこれは女性だけじゃないかもしれない。

男性にも、それ以外のセクシャリティを待つ人にも、それぞれに「その日」を経験しているのかもしれない。

 

 

そうだとしても、どうして男性である高畑勲監督が、女である私の「その日」を知っているんですか。

どうして、かぐや姫が人生でもっとも憤る瞬間は、貴公子たちに欺かれた時でもなく親の期待に添えなかった時でもなく、「その日」のその時だと、分かっているんですか。

どうして「その日」の心象風景を、こんなにも克明に描けるんですか。

 

 

すごい。

 

すごすぎる。

 

 

かぐや姫の疾走シーンがこんなにすごいシーンだったなんて、観るまでは分からなかった。(ただの筆自慢大会だと思ってた。)(ごめんなさい。)

 

 

 

実はもっとエグかったのでは…という個人的な見解

さて、絶望したかぐや姫は怒りに任せて爆走し、生まれ育った山村へ向かいます。

 

「自分の商品価値を上げる」ために着飾っていた着物を脱ぎ捨て、生身の人間として生きることができていたあの日々に逃げ戻るかのように。

 

 

息急き切って故郷の山に着いたとき、姫の姿は高貴な姫君ではなく、かといって田舎のおてんば娘でもなく、ボロボロの乞食のような姿でした。

 

 

そしてその山に、村はもうありませんでした。

木を切って加工する山村の人たちは、木を保全するため10年おきに住む場所を変えるのだそうです。

 

そんなことも知らなかったかぐや姫

 

ただでさえ月から降り立った「月の人」で、地球上でハイスピード成長したかぐや姫はまだ1年も生きていなかったのです。

 

村がなくなった山の木々は枯れて淋しいですが、かれらはじっと冬を耐え、春にまた芽吹くのだ…と通りすがりのおじさんに教わります。

 

 

 

疲れて、気が抜けて、雪の積もった野原で倒れこむ姫。

そこは、あの捨丸と最後に2人きりで心を通わせた、崖の下の野原なのかもしれません。

 

でもそこに、捨丸はいない。

子供たちもいない。

父も母も、育った家もない。

 

 

疲れきった姫は、雪の中で眠りに落ちます。

 

月の精がどこからか現れて、かぐや姫の周りをヒラヒラと舞います。

 

 

 

 

……気がつくと、そこは屋敷の御簾の中。

成人式の宴で貴族たちに嘲笑されたその瞬間に、いつのまにか戻っていました。

まるで村まで疾走したのは夢でも見ていたかのように…。

 

 

 

 

ここからは私の個人的な解釈なので読み飛ばしていただいて構わないのですが、

かぐや姫は、もっともっと酷い目に遭っていたんじゃないかと思うのです。

 

 

 

「顔を見せろよ〜」と翁に絡んでいた男が、さっさと立ち上がって翁から離れていきました。他の男たちが翁に詰め寄っている隙に、実行に移そうと御簾の方へと近寄っていったのでは…。

 

そして、その後の疾走シーンで流れる、あまりにもあまりにも壮絶な音楽。

 

眠りから覚めると、そこは御簾の中で、女童がそばでスヤスヤと寝ている…。

 

 

 

このシーン、性被害に遭った人が、あまりのショックでその記憶に蓋をしてしまう様子と被りすぎるのです…。

 

 

 

いやまぁ、さすがに平安の貴族社会でそんな無作法はないのかもしれませんが。

でも「覗き見」「夜這い」文化の時代で、宴のノリでこっそり抜け駆け…なんていうことも全然あり得ると思うのです…。

 

女童が持ってきたお酒は女童だけが口にし、その女童はかぐや姫のそばでスヤスヤ寝息を立てていました。

そりゃ三日も徹夜で姫の側にいることはできないでしょうけど、もしかしてそのお酒に何か盛られていたのでは…少なくとも現代のガラの悪い飲み会ではそういうことへの警戒が必要です。

 

平安時代には「そういうこと」に側仕えたちは見て見ぬふりをするといいますし、少しくらい夜這いがないとかえって「うちの娘はマズいところがあるのかな…?」と親が心配するともいいます。

 

姫は、ドンチャン騒ぎも終盤でみんながグデングデンに酔った頃、1人の男の夜這いにあったのではないでしょうか…。

そのショックで怒りに震え、心を村へと解離させ、じっと痛みに耐えるしかない自分を冬の山に重ねたのではないでしょうか。

 

身を引き裂かれるほどの体験をしたからこそ、翌日からは「人が変わったように」大人しくなったのではないでしょうか。

 

宴のあとから男たちがこぞってかぐや姫の屋敷に詰めかけたことも、納得がいきます。

秋田殿の目撃談に加えて、姫を襲った男があちこちで「武勇伝」を吹聴したことで、姫の評判が都中に伝わったのではないでしょうか。(最悪すぎますね。)

 

 

雪の中で舞っていた月の精たちは、そのマジカルパワーで姫と穢らわしい人間との交わりを忘れさせたのでしょうか。

それとも単に、雪の中で眠った姫を屋敷へワープさせたのでしょうか。

彼らならきっとどちらも可能でしょう。

しかしこの「穢らわしい人間との交わりを忘れさせる」パワーで、男の夜這いも、そしてラストの愛のある行為も、「夢だったのかな…?」と本人たちの記憶から消されているのではないかと思うのです。

 

 

 

 

 

冬を耐えて春を待つ…。

 

 

その言葉を胸に、かぐや姫はこの「冬」を耐えることにします。

高貴な姫としてうまく立ち回り、決して誰も信用せず誰にも心を開かず、自分の尊厳と幸福を守るために孤独に静かに戦うことを決意します。

10年後、またこの山に村の仲間たちが戻ってくるその日を彼女は夢見ていたのでしょうか。

 

 

 

翁があまりにも「親」すぎる

上記のような出来事は現代の尺度なら言い逃れできない暴力行為ですが、当時の常識なら誰も否定しない「よくあること」でしょう。

姫の不幸は、当時の社会の尺度では誰よりも幸福なのに、本人にとってはそれが1ミリも幸福ではなかったことです。

 

自分のやりたいこと・欲しいものは明確に分かっているのに、全然違うものばかりが手に入ること。

自分のやりたいこと・欲しいものすら分からないこと。

どちらがより不幸でしょうか。どちらにもそれぞれの悲劇があるのだと思います。

 

 

かぐや姫の場合、彼女が「欲しいもの」を1ミリも想像せずに社会の「常識」に彼女を押し込めたのは、徹底して父親役の翁です。

「人の幸せ・女の幸せとはこういうもので、なんとしても自分の愛する子供にその道を歩ませたい」。あまりにも「父親」、あまりにも「父性」。

(そしてそれは子供が望んでいることではないと察していながらも、家長には歯向かえず一時的な癒し・慰めの役割を担うことで消極的加担をしてしまう媼は、あまりにも「母親」です。)

 

翁は、姫を心から愛しているのと同時に、だからこそ親の贔屓目で娘の幸せを過大評価します。娘を愛するが故に愛の盲目で娘自身の心は翁の目に映りません。「娘には絶対に幸せになって欲しい」と願えばこそ、自分の経験則と社会の尺度でその「幸せ」に向けたレールを敷き、奔走するうちに「自分の娘」の価値と「自分」の価値を重ね子供の人生をとおして自分の人生で一発逆転できることに浮かれ、娘を幸せからどんどん引き剥がしてしまいながらもそれに気づかないのです。

 

姫を愛する気持ちは本当。

姫の幸せを願う気持ちも本当。

尽くしてきた献身も本当。

一方で、自分自身の保身や野心や自惚れも本当。

 

「姫のためだけを思って献身的に育ててきた」という無欲な気持ちも、

「そんな自分に見返りがあってもいいじゃないか」という強欲な気持ちも、

どちらも同じ1人の人間の中にある。

 

一貫して姫を肯定し姫の癒しであり続けた媼と対照的に、この翁という父は、とても多面的なのです。

 

  • 翁は、自分が見つけた(授かった)我が子を「姫」と崇めて独占欲丸出しにしたかと思いきや、ひとたび媼の手に姫が渡り「人間」の姿になったとたん「物怪の類ではないか?」と疑念を口にして「そんなわけないでしょ」と媼の母性に嗜められる
  • 村の子供たちに「たけのこ!たけのこ!」とからかわれれば顔を真っ赤にして「姫!姫!」と対抗するのに、酔った貴族たちに姫をどれだけ姫を侮辱されてもキョトン顔でろくに言い返さない
  • 竹取で見つけた財宝や衣を私利私欲のために使い込んだりはせず、あくまで「姫のため」に大切に取っておく(いわば子供の口座に貯金する親心のようなもの。)しかし、「これは自分がネコババしていいものではない」と手をつけないような無欲さはないし、「村のために使おう」という心の広さもない。ひたすらに「天から自分に与えられた使命…という名のラッキーチャンス」として活用する
  • 貴族からの関心、貴公子たちからの求婚はウキウキで姫に薦めるが、しかし最終的な判断は姫の意思を尊重してけっして無理強いまではしない、あくまで暴力親父ではない
  • おそらく長い人生のなかで「山で生まれ育った女の人生」をたくさん見てきたがゆえに、娘には他の道を歩ませたいと強く願っている…。「高貴な男性に嫁ぐのが女の幸せ」というのは経験則としてあるていど真理ではあるのだろうが、それを娘と向き合って説明するほど丁寧ではないし、実際のところ目先の富に浮き足だっていて娘と向き合うどころではない
  • 出所のわからない金と衣を持ち込んで屋敷を建てた成金の翁は都でさぞ笑いの種にされているだろうけど、本人は気にも留めず成金道を邁進する…それくらい娘の高貴さは「本物」だと信じている、その揺るぎない「娘を本物だと信じる心」が、皮肉にも「にせもの」の貴族暮らしを加速させていく
  • あれだけ姫の気持ちを無視して縁談をすすめてきたのに、いざ姫が月に帰ってしまうとなった時に思い浮かぶのは「幼少期の姫の成長がこの上ない幸せだった」こと…。姫を利用して成り上がってきたが、それでも「これだけ姫に投資したのに、すんでのところで回収できない」と嘆くのではなく、翁の心の土台には親としての姫への深い愛情がある

 

 

あまりにも父親。あまりにも父性。

 

 

この、「毒親」というほど有害ではなく、「虐待」というほどの加害性はない、ただただ「子供から見た親の嫌さ」を煮詰めたような翁。

 

 

私の知っている人にも、「医学部以外の進学は認めない」という医師の方がいます…。

 

子供を過大評価し「自分の子供は天才だ、自分と同じかそれ以上のキャリアを築くはずだ」と期待を背負わせる親。

子供を認めず評価せず「お前なんて」と可能性を摘む親。

どちらの親のもとにも、子供の地獄はあるのでしょう。

 

 

 

翁が翁でなければ、姫は幸せになれたのか?

では、翁がこんなありがた迷惑な親でなければ、姫は山村で初恋の人と幸せになれたでしょうか?

 

 

…私は、そうでもないのでは、という気がします。

 

 

たとえ山村を駆け回る日々が続いたとしても、いずれ「男から女として見られる日」は来ます。

一緒に駆け回った少年たちもある日を境に、自分を「女」として品評しはじめるでしょう。のちに初恋の相手となるであろう年上の捨丸にいざ「女として」見られたら、「自分は兄だと思っていたのに」とショックを受けるかもしれません。

貴族の夜這いとはぜんぜん違う方法で、彼女の貞操は奪われるかもしれません。

捨丸と両思いでハッピーエンド…となる可能性ももちろんありますが、それと同じくらい、美人の評判を聞きつけて他の地方からの縁談が来るかも知れず、そうなると社会的地位のない翁たちでは断りきれなくて、貴公子たちの求婚のときよりもっと大きな強制力で姫は嫁ぐことになるでしょう。

 

 

なにより、月で禁忌を犯した姫への「罰」として穢らわしく生きづらい人間社会へと送り込んだ月の人たちは、その魔法でどこまでもどこまでも姫を不幸に陥れるでしょう。

ありとあらゆる手段で「ほーら、人間なんて醜いでしょう」「限りある命とは苦しいでしょう」「生きることは辛いでしょう」と姫に実感させ、地球への憧れを打ち砕きにかかるでしょう。

 

 

そう考えると、「罰」として地球に降り立った時点で、かぐや姫が「不幸のどん底」に落ちることは決まっているのだと思います。

 

 

 

これは女性だけの物語ではない

X(Twitter)などでこの映画の評判を目にするとき、必ず「女性の生きづらさ」「フェミニズム」とセットで語られるのは、私が女性だからそういうアルゴリズムになっているのでしょうか?

 

 

男性はどんな感想を持つのだろうかと、一緒に初鑑賞した夫に聞くと「古典の竹取物語では『ワガママ放題の姫』というイメージだったのに、視点を変えればこんな見方ができるのか」という、いわば『羅生門』的な発見があったそうです。

 

女性ならば「女として消費される」シーンへの嫌悪感にことさら共鳴するかもしれませんが、ほかにも「翁があまりにも父親」という点なんかは性別にかかわらず身に覚えのある人も多いでしょう。(子供側/親側、それぞれの立場で。)

 

そして「野山を駆け回って自然と戯れる、幸せだった子供」ではいられなくなり、社会の求める大人の枠にはまらなければならない抑圧は性別を問いません。

 

女性に「子供から女になる日」が来るのと同じように、性のそれぞれに「通過儀礼」に身を裂かれ心を打ち砕かれる経験があるのかもしれません。

 

 

なによりも、たとえ苦しくとも不幸のどん底に堕ちようとも、「死んでしまおう」と決意するほどに世界が酷い場所であろうとも、「生きている」と実感できるこの「生」は素晴らしいのだという人間讃歌、草木と獣と虫と魚、雨や風や雪、空と水をたたえるこの星の美しさを日本画でうったえる地球讃歌、そして連綿と続くフィクションの歴史を束ねながら傑作を生み出し続けるアニメーション讃歌に、私は心打たれました。

 

 

 

かぐや姫の物語」がこんなに良いなら、もっと早く観たかった。

でも、今の自分が観たからこそ、こんなにも良いと感じることができたのだとも思います。

 

 

ジブリはDVDで集めたい

ジブリ公式で宮崎駿監督DVDボックスはゲットしたのですが、高畑勲監督のDVDボックスは売り切れてしまったので泣く泣く個別に集めることにしました。

…そしたら特典ディスクが付くので、バラで集めるのもいいですね!

 

年末年始に買い集めたら2026年カレンダーを4つももらってしまったので、誰か引き取ってください…。

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