ラジオを聞いていたら、たまたま耳に飛び込んできた言葉。「知識は荷物にならない」。
あちこちで引用されていることわざらしい。確かに、昔どこかで聞いたことがある気がする。
知識は荷物にならないのか?
このところの私の実感は、むしろ真逆である。
知識は荷物になる。ものすごく、重荷になる。
何も知らなければ、軽やかに行動できる。何にも縛られず、深く考えず、思うままに足を動かすことができる。
知識をえればえるほど、足取りはむしろ重くなる。
「〇〇という言葉は差別だから、言ってはいけない」
「〇〇には複雑な背景があるから、軽々しく扱ってはいけない」
「〇〇は今ではもうハラスメントだ」
「〇〇で傷つく人もいる」
いくらでも例をあげることができる。
例えば旅行に行ってその国を好きになり、その国をもっと知りたいと思って本を読む。映画を見る。
するとその国を形作るに至った長く重い歴史を目の当たりにする。
軽い気持ちでエンジョイしていた旅行も、「この場所に自分が今、いるということ」が意味を帯び始めて、簡単に語ることができなくなる。
これまで「おいしい、おいしい」と食べていた物も、環境問題や労働問題、それが自分の口に運ばれるまでに辿ってくる様々な過程を知ってしまうと、喉を通らなくなる。
何も知らなければ、何も考えなければ楽なのに。
無知なまま、幸せなままで死ぬことができるかもしれないのに。
それなのに私は知識に惹かれ、知識という富を得たいと思ってしまう。知識という富を求めることは、金銀財宝を求めることと同じくらい卑しく不幸なことなのではないか。
知識は、荷物だ。
人生をどんどん重くする荷物だ。
家に物が増えればもっと広い家を求め、そのために多くの金が必要になるのと同じように、
頭に知識が増えればもっと多くの知識を求め、そのために金・時間・人脈・情報筋、さまざまなコストが必要になる。
さらにタチの悪いことに、物理的な荷物とちがって、好きなように捨てることができない。知ってしまえば、知る前に戻れない。
歳をとれば経年劣化で消失してしまい、正しい知識、正確な知識を持ち続けようと思うと何度も何度もふりかえったり学び直す必要がある。
知識が仮に、家具やインテリアだったとして、
知識に彩られた屋敷は美しく豪華で飽きることのない住居だろう。
しかしそれらは、掃除の手間を増やし、最新のものに買い換えるメンテナンスやランニングコストがかかり、自分のお気に入りの家具が贋作だと知る可能性まで持ち込んでしまう。
たとえそうだとしても、やっぱりごちゃごちゃした美しい部屋に住みたいと思ってしまうのだ。空っぽの本棚よりも、読みきれなくともズラリと本が並ぶ本棚を持ちたいと思ってしまうのだ。
重い荷物を背負わない、軽やかな人生に憧れる。その幸福に憧れる。
それなのに、つい、また荷物の方へと惹かれてしまう。
元のことわざはどうも違うらしい
インターネットで調べてみたところ、原典はサンスクリットのことわざだそうだ。
盗賊は『知識』を盗めない。
王も『知識』に税をかけたり、権力を行使することはできない。
兄弟も『知識』は財産分与することができない。
『知識』は軽くどこへでも運べる。
『知識』は使えば使うほど増えていく。
そのような『知識』は最高の『富』である。Na corahāryaṃ na ca rājaharyaṃ, na bhrātŗ bhājyam na ca bhārakāri
Vyayē kŗtē varthata ēva nityam, vidyādhanaṃ sarvadhana pradhānaṃ ǁ
出典:
どうやら「盗賊は知識を盗めない」「知識は軽くどこへでも運べる」というあたりが、微妙に噛み砕かれて「知識は荷物にならない」に改変されていったらしい。
こうなると、ちょっと話が違ってくるな。
このことわざなら、「確かに、そう」でしかない。
正しい知識のおかげで、心が軽くなってしまった。