旅するトナカイ

旅行記エッセイ漫画

【書籍レビュー】思いのままに生きることの自由と、責任ー西加奈子『円卓』

「好きすぎて、遠ざけてしまう」ということがある。私にとってその作家が、西加奈子である。

 

西加奈子には『サラバ!』でえぐられ、その後もあれこれ読んでみてはその度に胸を打たれる。とにかく私の好みにドンピシャ、ストライクゾーンど真ん中なのである。

 

 

 

大阪育ちで関西が舞台の作品が多いことと、海外で生まれ育ったことによるアイデンティティの揺らぎに共感するところも大きいのだと思う。

 

しかしあまりにドンピシャすぎて、いざ本を手に取るとなると尻込みしてしまう。「次に読んだ本でがっかりしたらどうしよう」。期待を裏切られたくないという期待で、向き合うのが怖い。いわば、私は自分の小説生活をメンヘラちっくに西加奈子に依存しており、西加奈子に裏切られたら私は今後なにを読めばいいのか分からない、だから西加奈子にはぜったいに裏切られられない…と歪みきった愛情を向けているのである。

ゆえに再読率は高いものの未読作品の方が圧倒的に多く、それが「西加奈子ファン」を名乗る上での足枷になっている。(名乗る場面もないので別に困らないのだが。)

 

 

さて、そんな私がこのたび「語らねばならない」と思ってしまった今更な西加奈子作品が『円卓』である。

 

 

 

 

2011年の作品で、行定勲監督・芦田愛菜主演で映画化までされているので私が今更オススメする必要など皆無である。でも私は今更な今にそこ初めて出会ってしまったのだし、語りたくて仕方なくなってしまったのだから仕方がない。

 

 

※この記事は内容のネタバレ(匂わせ)を含みます。未読の方はぜひ先に小説本編をお読みください。200ページ弱だからいけるいける!

 

 

目次

 

 

 

あらすじ

主人公「こっこ」は、関西在住の小学3年生。

人柄の良い大家族・気持ちの良い同級生たちに囲まれながらも、本人はひねくれた性格。好きな言葉は「孤独」。(すでに厨二病の素養を秘めたおそるべき小3)(他人事とは思えない)。

小学校と家との往復の毎日…のなかでも、世の中の価値観と折り合いをつけ、人を思いやり、それでも上手くいかない人生の理不尽に傷つき成長していく、切なくて眩しいひと夏。

 

 

 

単調な生活が、こんなにも色彩に溢れている

小学生を主人公にしながら、大人向けの小説を書く。

そこで一番のハードルは生活が単調なことだと思う。

小学生は、家と学校の往復の毎日。出会う人も限られている、狭い社会。行動範囲も自由がきかず、ドラマティックな大展開は起こりづらい(し、いざ起こってしまうと大人目線では可哀想すぎて見ていられない。)

 

しかし西加奈子の手にかかれば、彼女が描く「小学3年生・こっこ」のフィルターを通せば、日々の生活はこんなにも多彩に輝く。

 

 

 

こっこは、狭い団地に祖父母・両親・三つ子の姉という8人の大家族で住んでいる(その大家族が囲むダイニングが、中華料理店からもらってきた「円卓」である)。

三つ子の姉は中学生でこっこに甘く、善良すぎる3人の性格はこっこには没個性的で「普通すぎる」。かしましい、いかにもな女の子像に『凡人が!』『やかましい!』とこっこは心内で毒付く。

 

3年2組のクラスメイトたちも、大人が見れば「みんな同じように可愛い子どもたち」だが、こっこの目を通せばあまりにも個性的で、唯一無二だ。

いちばんの親友は、家が隣の「ぽっさん」。自室の窓を開けて毎晩のように話す、あだち充漫画でいうところの「幼馴染恋人候補」枠である。吃音症でどもりながら話し、こっこはその個性を心から「格好いい」と憧れていて、それもまた2人の仲を睦まじくしている。(小学3年生の2人にはまだ「恋人候補」という認識はなく、ピュアなソウルメイトの関係にはまだ名前が付いておらず、それが眩しい。)

他にも、クールビューティでこっこの「孤独」像を体現している「香田めぐみさん」、学級委員で人気者の「朴君」など、こっこの目にはそれぞれの「個性」がまざまざと映し出される。

 

それぞれの子どもたちは、大人の目で見れば「移民」「在日韓国人」「ハーフ」「先天的な疾患」など、さまざまな社会の側面、世の中の課題が凝縮されている。

しかしクラスメイトとして接するこっこには先入観がない。偏見がない。そこには真の多様性がある。その多様性、「人との違い」は、こっこにはなにやら「個性的で格好いい人」「気持ちわるくて嫌いなヤツ」と映るが、しかし大人たちには「触れてはならないこと」とだけ教えられる。

 

 

大人はそうやって、ラベルを貼る。「あの子は移民の子」「あの子は愛人の子」とラベルを貼って、その色眼鏡で見ることで、なにかを了解したかのように振る舞う。

しかしそのラベルを持たない子どもにとっては、「その子」が先にあって、ラベルは後にある。同級生、一人ひとりとの出会いをとおして、世界と出会う。国と出会う。歴史と出会う。格差や人間社会と出会う。

 

 

 

おそらくこっこも、いずれはラベルを貼る大人になるだろう。いや、今のこっこ自身、可笑しな色眼鏡で世の中を見て独自のラベルを貼っている。その色眼鏡と、世の中の眼鏡とのすり合わせをして、だんだんと「暗黙の了解」を了承していくだろう。

 

かつては私たちも、自分独自の色眼鏡を持っていた。それを社会とチューニングすることで、社会性を身につけてきた。

それがまだ済んでいないこっこは、かつて私がどんな風に社会を見ていたのか、ありのままの自分は世界をどんな目で見てどう感じていたかを思い出させてくれる。

 

 

そしてその世界は、暗黙の了解で満たされた大人の世界よりもずっと鮮やかで、生々しい。

決して美しいだけではない、美しいとか汚いとかの評価軸が入る前の、ざらざら、ヌメヌメ、どろどろ、サラサラ、ツルツルした「手ざわり」が伝わってくる。

 

 

言葉にしないことで、言語化によるラベリングをしないことで、世界はこんなにも肉肉しい立体感を得るのだ。

 

 

 

価値のない人間はいない

良い物語には、余計な文章、余計な登場人物がいない、と言う。

全てのピースが必要不可欠で、ピタリとはまっているからこそ良い物語になる。

 

 

その意味で、この小説に登場する人物に、余計な人は1人もいない。

 

 

たった200ページの物語に、家族8人、学校のクラスみんなが登場する。

それぞれについて深く掘り下げられることはなくとも、しかし、それぞれが少しずつこっこの人生に影響を与える。影の薄い人も濃い人も、どちらもこっこを取り巻く「社会」を構成し、その社会がこっこの人格の土壌となる。

 

 

私たちの人生も、そうなのだ。

 

これまで出会ってきて、印象に残る人ももう記憶から消え去った人も、全ての人が「私」という人間に影響を与えている。同様に、自分が関わった人、同じ空気を吸った人に、自分は善かれ悪しかれ必ず何かの影響を残している。(なんとかその影響が「善い」ものであれかしと願うのだが、なかなかどうしてそうもいかない。)

 

 

私たちの物語に、余計な人物はいない。

 

つまり、この世界に、余計な人間なんていない。

 

 

クラスの中で浮いていたあの子も、存在感がなく空気のようにやり過ごしていたあの子も、大人になってから厄介者なあの人も世界の業を背負ったあの人も、すべてが存在して、初めてこの社会は、「世界」は、存在している。

 

 

小説の中で、こっこの目線で語られる他者は、それがそのままこっこという人物を浮き彫りにする。

こっこが好きな人も、嫌いなヤツも、こっこという人間をつくるには必要な存在だ。この物語において語られる価値のある存在だ。

誰か1人でも語られない人物がいれば、パレットから絵の具が1色減らされるように、この世界の色彩はひとつ失われてしまう。

よく使う色も、ずっと使われず残っている色も、どちらもなければ多彩なパレットで生き生きとした世界を描くことはできない。

 

 

そのことが、つまり、私たち一人ひとりの存在が世界に彩を加えているのだと教えてくれる。

 

 

 

 

「思いのまま」を向けること、向けられること

こっこには、独自の評価軸がある。

「孤独」に憧れ、唯一無二な「個性」に憧れる。

 

香田めぐみさんの「ものもらい」「眼帯」に憧れるし、ぽっさんの「吃音」が格好いいし、朴君の「パニック症状」が羨ましいし、ゴックんの「移民の背景」、ちゅーやんの「複雑な家庭環境」、菅原ありすの「早熟」、そして幹成海の隠された闇に惹かれる。

 

 

しかしその評価軸は、世の中の評価軸とはズレている。

 

 

そのことについて親友・ぽっさんと議論するシーンは、この小説の中でも白熱の名シーンである。

 

 

「ときどき、うちが言うことに、周りがおかしなることがある。」

「お、おかしなる?」

「うん。こっこはなんでそんな風なんやって、思われてる気がする。」

「そ、そうか。」

「今日もそうや。朴君のふせいみゃく、うちは羨ましくて、だから、自分がふせいみゃくになったのんが、嬉しかってん。でも、ジビキ(担任)、あれは、怒っとった。絶対。」

「そ、そやな。」

「せやろ? なんで怒ってたんや。」

 

(中略)

 

「なんでじゃ。うちは、羨ましいから、やってるのに。格好ええ人の真似するのんが、あかんのけ。」

「お、お前は格好ええ、と、お、思うかもしれへんけど、ふ、普通の人は思わへんのや。ふ、不整脈の人は、しんどいなぁ、て、思てはるんや。」

「普通の人はそう思てはるかしらんけど、でも、うちは、格好ええと思うねん。苦しい、死ぬくらいに苦しい思いするなんて、滅茶苦茶格好ええと、思うねん。」

「うん。」

「でも、あかんのんか。」

 

(文春文庫版112〜113ページ)

 

 

まず、親友・ぽっさんの傾聴力に涙が出る。

こっこにぽっさんが側にいてくれたこと、こんなに嬉しいことはない。

 

 

2人はここから、ああでもない、こうでもないと、「なぜ格好いいと思う人を真似してはいけないのか」、小学生の知恵を絞ってまっすぐに議論する。

 

 

「たとえ善良な動機であっても、自由に、思いのままに振る舞うことが社会で許されないのはなぜか」

「なぜ、個性を殺し、自由を返上して社会に迎合せねばならないのか」という、大人でも難しい問いを、小学生が自分たちの社会、自分たちの目線で真剣に頭を悩ませるのだ。さながら「こども版カラマーゾフの大審問官」である。

 

 

こんなこと、深く考えずに、すんなりと社会に適合できる人は幸運だろう。

しかし社会と違う尺度で生きるこっこは、この問いと向き合わなければ生きていけない。おそらく、一生。

 

 

ありのままに、思いのままに自分らしくいることが、社会では浮いてしまい、弾かれてしまう。

 

おそらく多くの人は、明確な「答え」が出るよりも先に、経験則を重ねて実践的に「無難な正解」を身につけていくだろう。

大人になればそこに求められる反射速度はなお一層短く、こんなことを立ち止まって考える暇も与えられない。

 

 

だからこそ、小学生のこっこが、まだたっぷりと悩む時間のあるこっこが、そのことに頭を悩ませることに意味がある。

たっぷりと悩んで、なにか違うと思いながら社会に迎合せざるを得ない時も、その違和感を自分の芯として持つことで自分自身というものを保つことができるかもしれない。

 

 

 

そんな「思いのままに生きたい」と願うこっこが、他者からの「思いのまま」を向けられ傷つくシーンがある。

 

 

さすがに詳細を書くとネタバレが過ぎるかもしれないので控えるが、こっこは、「他者から思いのままにされる」という経験に遭遇してしまう。

 

そして、子どもながらに、その違和感に気づく。

「自分は傷ついている」ということが分かるにはまだ幼い。何か分からないが、ただ見過ごして受け流すことができない何かが自分にもたらされたことには気づいている。

そしてその時、誰かが側にいて欲しかった、寂しかった、怖かった、心細かった…ということが漠然とした感覚としてだけある。(この体験のラベルを知って言葉にできるのは、きっとこっこが大人になってからだろう。)

 

 

 

こっこは、本当の「孤独」を知る。

 

それが、ずっと憧れていた「孤独」とは違う姿、違う手触りであることを知る。

 

 

思いのままに、自由に生きるということは、こういうことだ。

本人に悪意や害意はなくても、そして目に見える「実害」がなくても、相手は傷つくかもしれないし嫌な気持ちになるかもしれない。大人の言葉では「尊厳を傷つける」ということが起こるかもしれない。

その責任を追うことが、思いのままに振る舞うということだ。

 

 

こっこはこれからも、大人になる過程で、さまざまな他者によって傷つけられるだろう。

ほんとうの「孤独」を味わい、それは決して自分が思うような「格好いい」もの、「なりたい」「真似したい」ものではないことを味わうだろう。

それに対して自分にできることの、あまりの少なさ、小ささにもどかしくなるだろう。

 

しかし、それでもこっこは前を向いて生きてくれるという確信がある。

 

 

 

 

ラストの、あまりにもカタルシス

大きなドラマが起こらない小学生の日常の物語は、どのように幕を閉じるのか。

 

まさか、こんなにもカタルシスに満ちた読後感で終わっていくとは想像もしなかった。

 

 

 

夏休みの間の静かな成長を経て、こっこは周囲に救われ、そして周囲を救う。

そのラストシーンの、なんと情緒的なことか。

 

 

タイトル「円卓」は、こっこの家のダイニングテーブルのことだ。

8人家族が食卓を囲める大きな円卓は、狭い団地を圧迫する。

それはまさに、こっこと家族の姿そのものである。

 

個性豊かな家族の面々は、こっこにとっては「やかまし」すぎる。

それは孤独に我が道を歩みたいこっこを常に邪魔するし、常に「普通」の基準をこっこに突きつける。四六時中、他者とうまく空間を分け合うことを迫る、うっとうしい「共存」の象徴である。

 

しかしその円卓こそが、家族を等しく受け入れている。

テーブルの中央をくるくる回せば、祖父母も両親も姉も自分も、平等におかずに手を伸ばすことができる。

1人くらい増えたって構わないし、それが誰であってもくるくる回せば家族は回る。

 

 

自分の生活を圧迫する共同体こそが、自分を受け入れてくれる場所でもある。

 

居心地悪い思いをしながらも共同体の構成員となんとかやっていかなければならない煩わしさと、しかしそんな共同体にしかない懐の深さと広さ。

他国で生まれ、人情の街・大阪に「外から」入ってきた西加奈子だからこそ、この「嫌さ」と「好さ」を同時に描けるのだと思う。

 

 

こっこはこれからも、この共同体の窮屈さに苛立ち、偏屈なまま成長していくだろう。小学生なりのまなざしで、人生の上手くいかなさや社会の理不尽と向き合い、生き方を模索していくだろう。

しかし彼女のガサツな性格のおかげで、その足取りはたくましい。どんなに険しい道のりでも彼女の足元からはどす、どす、と足音が聞こえてきそうで、こっこならきっと大丈夫なはずだ、と読者に希望を抱かせてくれる。

 

 

子どもの姿に希望を抱くとき、私たち大人は、この世界に希望を見出す。

 

 

この小説は、世界への希望で溢れている。

 

 

 

『円卓』ぜひ読んでみてください

さて、ここまできてまだ本作をお読みでない方は、ぜひとも『円卓』を読んでみてほしい。

先日の「かぐや姫の物語」レビューにも通ずるズシンとくるものが、軽やかな筆致で書かれています。

 

 

 

 

www.fusakonoblog.com