数年に一回、ふと見返したくなる『プラダを着た悪魔』。

正直行って、私はあまり好きな作品ではない。初めて見たのは公開から10年後くらいなので完全にリアタイの感動を逃したのも理由ではある。
しかしそれでも、挿入歌 "Suddenly I See" は定期的に無性に聴きたくなるし、オープニングでこの曲が流れる3分間は至福の時間である。(このオープニングだけで、この映画2時間分を見たのと同じ価値があると言ってもいい。)
初見の当時ですら「ハァ?なんだコイツら???」と思ったのだから、あれから更に10年が経った今の社会情勢を見るに、もはやこの映画の時代錯誤はエンタメ作品として鑑賞に耐える臨界点を超えつつあると思う。今はまだギリギリ、リアルタイムで観て胸をときめかせたファンの声が強いかもしれないが、おそらくそれも時間の問題だ。
あと5年もすれば、「パワハラが当たり前だった最悪の時代を映した歴史教材」になってしまうのではないだろうか。
だからこそ今のうちに、「この映画が私たちに与えたもの」を少しは語れる立場からの言い訳をさせてほしい。
『ファッション誌』が最先端だったあの頃
物語の舞台はニューヨーク、世界一のファッション誌『RUNWAY』の編集室。
社会派ジャーナリスト志望、地味で真面目なアンディ(アン・ハサウェイ)は、就活がうまくいかず、なにをまかり間違ったのか自分とは真逆の世界の『RUNWAY』の編集長アシスタントに就職してしまう。
世界中の女性が憧れるファッション界の頂点に君臨する編集長ミランダ(メリル・ストリープ)は、界隈で有名な "鬼" 編集長だった。
「ここで結果を出せば出版業界への足掛かりになる」と、ミランダの無理難題にも必死に応えていくうちに、アンディはみるみる「オシャレなシゴデキ女子」に変身していく…というシンデレラストーリー。
現実のファッション誌『VOGUE』がモデルというのは有名な話。
「紙の雑誌」がトレンドの最先端を担っていたなんて、今の若い人には理解できないかもしれない。インスタもTiktokも、ウェブマガジンもなかった時代は、すべての「オシャレ」は雑誌から発信されていたのだ。
頭角を表したばかりのアン・ハサウェイの美貌、シーンごとに魅せるファッションの眩しさ、そしてメリル・ストリープのリアルすぎる "鬼" の名演…。
この映画がどれだけの女の子に「仕事キツいけど、明日もガンバろっ」と前を向かせたかわからない。
がんばる女子のお仕事映画
前述の通り、この映画のエッセンスは冒頭3分間に凝縮されている。この3分間だけで元は取れる(し、そのまま惰性で見続けるだけでテンポが良いのであっという間に最後まで見れちゃう)。
BGMとともに画面に映るのは、主人公アン・ハサウェイ…ではなく「朝の身支度をする女性たち」。
歯を磨く。下着をつける。服を選ぶ。靴を履く。恋人にキスをして部屋を出る…。
ただそれだけの、なんてことない毎朝の一コマだが、都会であくせく働く女の子にはその意味がわかる。
"Suddenly I see this is what I wanna be."
朝、お気に入りの下着を選ぶ。人には見られない部分なのに、良い下着をつければ自信が湧いて背筋がシャンとする。
鏡の前で服を当て、あっちにしようかこっちにしようか考える時、頭の中にはその日に会う予定の人の顔が浮かんでいる。
唇に紅を引くと、スイッチがONになる。
高いヒールの靴に足を通す瞬間、「外」の自分が発進する。
まだベッドでゴロゴロする恋人に「いってきます」のキスをする時、そこには「男に養われるんじゃない、家を守る役割じゃない、社会に出て自活している一人の女」としての自分がいる。
そう、ここに、この時代に「大都会の真ん中で働くワタシ」の全てが詰まっているのだ。
お母さんは専業主婦。でも私たちは大学を出て都会に就職して正社員として働く。男性に養われるレールの上は歩かない。
かといって仕事漬けで恋愛や結婚を諦めているわけではなく、しっかり恋人もいて同棲までしてる。「対等な恋人同士の」同棲を。
なんなら、カレシよりも私の方がバリバリ働いて稼いでる。経済的に寄りかかったりなんか、しない。
もちろん、仕事に忙殺されてボロボロになったりもしない、毎日オシャレしていつもキレイな私でいる。
「男性に依存して《自分》のない人生」「仕事優先で孤独な人生」「忙殺されてルックスに手が回らない人生」そんな前時代のみじめな女性像はゴメンよ、私たちはぜんぶ自分で叶えてやるんだから。
そんなパワーに満ちた20代の女の子たちのお手本が、この3分間に映されているのだ。
(今の時代・年齢で振り返って見れば全肯定はしづらいものの、こういう、この時代この年齢の若さと無謀なパワー、威勢の良さは、この時限りの輝きを放っていると今になって思う。)
もちろん観客の女性たちは、現実はそう簡単ではなく、それぞれにそれぞれの壁にぶつかり「ぜんぶ叶えてやる」ことがいかに難しいかと絶望するのだが…、しかしエンタメ映画で夢を語らなくてどうする。
『VOGUE』が憧れのファッション界を夢見させてくれたように、映画『プラダを着た悪魔』が憧れのニューヨーク・お仕事ライフを夢見させてくれなくてどうする。
今の時代から見れば「何をそんなに肩肘張って頑張ってるの?」と思われるのかもしれないが、私たちの世代が「親世代の女性像を脱却し、自分たち世代の女性像を築く」というのはこういうことだったのだ。
少しでも気を抜けば、すぐ足元に「いいオトコ見つけて専業主婦になれば?」「じゃあ両親はなんのために私を大学に行かせてくれたの?」という葛藤が口を開いて私たちを待っているのだから。
ハイパー・パワハラ時代
そんな「新しい時代の女性像」を体現しようとするアンディが飛び込んだのは、ファッション業界というハイパー・パワハラワールドだ。
光が強いほど、影はより濃くなる。
「誰もが憧れる」ということはつまり、「いくらでも替えが効く」ということで、それはつまり「パワハラし放題」ということだ。
上司の無茶な命令に「えっ…」と躊躇する暇はない。自分が二の足を踏むその一瞬の間に、ライバルたちが率先して仕事をかっさらっていく。
「NOは許されない」その不文律に従っているうちに、いつしか自分自身が、「血も涙もない上司」と同じ人間になっていく。
「まったく、なんて酷い上司だ。彼女のわがままのせいでこんなことをしなきゃいけないなんて」と言いながらもそれに従ってきたアンディは、周りから気付かされる。「私自身が、そんな『酷い上司』を内面化している。」
…正直、初めて見た時はあまりのパワハラ具合に「いや、これのどこが良い話なんだ」と思った。鬼上司・ミランダのパワハラぶりも、アンディの無責任ぶりもどちらも全く共感できず「どいつもこいつも…」としか思えなかった。
おそらくそれは、既に社会人になっていた私から見ると、ミランダが「映画の世界のお話」とは思えなかったからだ。
ミランダのパワハラに見舞われるアンディは「今この瞬間も、大都会でパワハラに遭っている若手社員」に見えたし、そして一皮剥けたアンディは「最悪の方法で仕事を投げ出した無責任な社会人」に見えた。
今見たらどうだろうか。全てが違って見えるんじゃないか。
令和の感覚は、ミランダに対して終始「????」だろうし、それに付き合うアンディにも「????」だろう。DVの共依存関係をだらだらと見せられているだけに見えるかもしれない。
ミランダのワガママ放題の娘たちに「ハリーポッターの未発売の最新刊を手に入れさせる」なんて公私混同の極み、そんなことでお前の子育ては良いのかと問い詰めたくなる。(ただ、歳をとればとるほど娘に甘くならざるをえないミランダの心情は理解できてしまう。)(だからこそ第三者がピシャリと歯止めを効かせて欲しいと思うのだが。)これを作中で「今まで仕事を頑張ったおかげで、人脈が役に立った」という成功体験として扱っているところがまた、パワハラ時代の産物の匂いがする。
「あの頃はこうだったんだ」と言い訳したい
でも、こうだったのだ。
あの時代の「働く女性」にできることはこれしかなかったのだ。
労働環境やシステムに異議を唱える余裕などない。
自分の親たち祖母たちがやってこなかったことに、私たちは初めてチャレンジしているのだ。
ロールモデルはいない。お手本はない。
とにかくチャンスに齧り付いていくしかない。善悪や正当性を問うている暇はない。疑問を持つ人間は捨てられるまで。疑問を呈さずに従順に従う他のライバルに今のポストを奪われる。
ライバルたちに遅れをとった自分を待ちうけるのは、夫の経済力に依存し、家族の底辺の地位に追いやられ、姑にも家族にも使い倒され「個」としての自分を失う、憐れな実家の母のような姿なのだから。ライバルたちを蹴落として組織のトップに立っている鬼上司、彼女こそが今の自分の知る唯一の「成功例」なのだから。
(もちろん家庭を持てばまた見方も全て変わるのだが、社会に出たばかりで全てのことが新鮮に眩しい20代に見える視野はここまでなのだ。)
続編によって過去は肯定されうるのか
どんなに言ったって、時代遅れであることに違いはないと思う。
どうしたって現代に生きる私たちは「厳しいけどカッコいい」ミランダを否定しなければならないし、それに付き合ってしまうアンディに「ちょっと待て」と言わざるを得ない。
久々に『プラダを着た悪魔』を視聴し、「この感じ、今の時代には通用しないだろうなぁ」「こうやって通用しなくなる名作が多々あるのだろうなぁ」と切なくなってこの記事を書き始め、未完のまま数年眠らせていたらなんと続編が出るというではないか。
主役陣の年齢や時代の変化などを考えれば、たしかに人気作の二匹目のドジョウを追う「最後のチャンス」かもしれない。
しかし私は心配である。
どんなに煌びやかなファッションに身を包んだって、オシャレな世界観で女性たちを魅了したって、現代のキャンセルカルチャーにおいてミランダはもう「キャンセル対象」になってしまうんじゃないだろうか。
紙雑誌の編集長なんてオワコン中のオワコン、次世代からは串刺しにされファンたちからはそっぽをむかれ、過去のハラスメントを叩かれ放題なんじゃないか。ひっそり隠居生活しておくのが本人の幸せなんじゃないか。
ミランダがミランダのままであっても、アップデート版ミランダになっていたとしても、過去の横暴を肯定することはできない。
ついでに成長したミランダの娘たちの予後はふつうに悪いのではないか。(迫真)
もし『プラダを着た悪魔2』で、ミランダがすっかり「時代遅れ」扱いを受けていたらツラい。彼女は彼女の時代で、今よりもずっとずっと女性が活躍することがハードだった環境の中、せいいっぱいやっていたはずなんだと擁護したくなる。しかし逆に、ミランダが令和版アップデートをぶちかまして意識改革しまくってたら、それはそれで「おまえ過去の所業を水に流せるとでも思っているのか」とつついてやりたくなる。どっちも辛い。
ついでに、最悪のタイミングに最悪の方法で「RUNWAY」を飛び出したアンディ、どんな顔してミランダと再会すんねん(ていうか『1』のラストの時点でもいくらミランダの赦しがあったからっておまえがニコニコ手を振るのは違うやろ、顔向けできなくてそそくさと立ち去るか、クソお世話になっておきながらトんですみませんでしたそんな自分に過分な図らいをいただいて申し訳ございませんとニューヨークのアスファルトに額を擦り付けて土下座せんかい)とツッコみたくて仕方がない。何十年経っていようと私は水に流せない。ミランダが許しても私が許さん。
そんな拗れたファン心で、私は『プラダを着た悪魔2』が直視できない。
…あ。でもエミリーがまた出るなら観ます。彼女がパリコレに辿り着くその日まで。
