図書館で出会ってぱらぱらとめくり、心惹かれて借りた本。

著者の方は私とほぼ同い年で、同じ出身地。
本に目次はなかったが、1980年からはじまり、1996年、2023年…と章立てされていて、それぞれの時代に同い年の女性が感じていたことが綴られているのならばぜひ読みたいと期待した。
タイトルからエッセイ集なのかと思ったらそうではなく、小説。
…というか、散文詩に近い。
詩のような小説世界がクセになる
関西弁で、つらつら、ポロポロと語られる語り口は私が読み慣れた小説とはずいぶん違って、まったくもう読みづらくて仕方がない。
はじまりは1980年。主人公・銅子の幼少期。
どうやら幼児の思考をそのまま一人称でトレースしているようで、だからあちこちに思考が飛ぶし、目の前のことの描写の間に「そういえば」という話が唐突に挟まる。
例えば、親子で山歩きをしている場面。
足場が崩れて、兄が崖から落ちてしまう。
落ちてる葉多く、致命的な音はしんかった。兄ちゃんは今や遠く、落ちるというのは一瞬なんやからすごい、水なんかは循環してるって習ったけど、雨になって落ちる時がそれは一番、変身の中では気持ちいいやろう、瞬間で別の形に変わって。
こんな調子で、主人公の思考があっちへこっちへ連想ゲームで飛んでいくのを逐一追わされる。話の筋から外れていくのを、なんの話をしてるんだよ…と思いながら付き合わされる。こちらの話を聞かないタイプの人の散漫な話を聞かされている気分だ。
まさに子供の頭の中を覗き込んでいるような体験だ。
年月を経ていくと、次第に散漫っぷりは落ち着いていくものの「、」でつらつらと思考が連続していく文体自体は変わらない。
しかしこの語り口がどんどん癖になっていく。
ひとつひとつの文字をきっちり捉えなくても、語感がつくる音の流れに身を委ねているのが心地よく、もっともっと、とこの文章を摂取したくなってしまう。
そして、心地よく身を委ねていたら、急にグサリとこちらの胸を刺すような言葉が出てきてハッとする。
阪神淡路大震災の、あの日々
関西弁で綴られるこの小説が私の心をつかんだのは、やはりどうして神戸が舞台だからだろう。そこで必ず語られるのは、阪神淡路大震災の話である。
私は阪神淡路大震災を自宅で経験した。幼稚園児だった。
私が住んでいた地域は六甲山に守られてほとんど被害がなく、毎日のように「海側」の神戸の被害状況をニュースで見ていた。
主人公・銅子は家の中がぐちゃぐちゃになり、母と娘とともに避難所へ赴く。
正面を入り一階の教室に、遺体安置所と貼ってあって、ああ漢字で書いてあるから、小さい子には何の部屋か分からんようになってるわ。この部屋に本当に用事のある人しか、行かん部屋なんやわと通り過ぎる。遺体の布団足らんって、と聞こえてきて、どう思えばいい?と周りを見回す。死んでる人の横に生きてる私がおるんは、公平ではない?思い方は?
扉の近くしかスペースは空いてへん。色とりどりの毛布で皆陣地を取り、毛布や布団に花柄が多いんは何でや、長時間人の目に耐えるんは花だけか。
寒さを防ぐ方法は、もうボタンをきっちり閉めるくらいしか残されてない、後は追い剥ぎか。寝転ぶのは休息であり、そうでもない。ポリタンクが低い壁となり横の子はパイプ椅子を借りてきて、そこに体をもたせ掛けてる、それが楽やろうか。冷たい床と冷たい椅子では、どちらが冷たいか。運良く壁にもたれられる人、前転後転する用のマットを下に敷いてるんは、早くに来た人たちやろう。
まるで短歌を読むようなリズムで、避難所の情景が頭に広がっていく。
日常がなくなっても、そこには人がいる。
考える人がいる。
言葉にしなかった、自分の中の言葉が語られる
物語の後半。こんどは娘・厚美の視点で、1995年、2003年、2011年…と同じ時代が語られる。母の思いを受け止めたり、すれ違ったりしながら成熟していく様子が母と重なりながらも母とは異なる。
部活の備品が高くて難儀したり、母親の彼氏の存在にギクシャクしたり、衰えてゆく祖母を見守ったり…。10代、20代、30代の「娘」の人生の欠片を垣間見る。
震災の後この際やからと家は畳から、板の床にカーペット敷になって、畳ちゃうかったらでも、剥がして一枚の畳の上に人の体のせて運んだりできへん。布団は板にならんし、ベッドなんかはのせたままドアも通り抜けられへんから、困るな。畳は軽いのに自分で立って、便利やったよな。
震災を経験した祖母・母にとって、畳からフローリングになることは近代化の証であり、耐震性の高い新築の象徴であり、また「復興」そのものであったかもしれない。しかしまだ幼かった厚美にとって「便利な畳」には幼少期の郷愁がある。しんどかった避難時期をともに乗り越えてきた仲間である。
素朴な子供の感性が、同じ「震災」「復興」に異なる視線をなげかける。
そしてそれは、家族に言うほどではない、言うことはできない、自分の中だけにしまっておかれる視線である。
私たちは一体いくつ、自分の中だけにしまっておいただろう。
誰にも言えない、言ったって伝わらない、伝えたいわけじゃない、言葉にした途端にその手触りが失われてしまうような言葉たちをとどめてきただろう。
それを言葉にしていくことこそ、小説というものだけに許された特権なのだと思うし、小説が人を救うのだとしたらそれはこういった作用によるものだと思う。
作品を通して言葉にすることでしか、この言葉は外に発しえない。
私が自分の中にとどめてきた言葉を、この小説が見つけてくれる。
その言葉たちにも意味があったのだということに気づかせてくれる。
私たちの「東日本大震災」
東日本大震災が起こって、私はどう思えばいいんやと思って、私が何を思っても何の違いもないもんやけど、自分のために、まず自分の思い方を誰かに教えてほしかった。
もうこれについては私はこれ以上に語れる言葉がない。
どう思えばいいのか、自分の思い方を誰かに教えてほしい。
東日本大震災だけではない。熊本も、北陸も、北摂も、水害も洪水も、外国で起こるありとあらゆる天災と戦争も。
どう思えばいいのか誰かに教えてほしい。
教えてくれようとする人の言うことはたいてい、まともに聞いていられない。「皆、こう思えばいいんですよ」「こう思うべきなんですよ」と言う人の言葉じゃなくて、神戸で震災を経験して、その後のいろいろなものを自分の場所で自分の歳で自分の立場で経験して、それで今がある自分の思い方を教えてほしい。
同じ神戸にいたって自分のように軽傷だった人の思う思い方は、もっとしんどい思いをした人の思い方とは違うはずだ。
地域や属性ではひとくくりにできないから、自分の軸足を定めるのが難しい。
だいいち、私が何を思ったところで何も変わらない。自然は、人類は大きい。
悲しむのもしんどいし、怒っても良いことはないし、ほっとするのは憚られる。
どこに傾いても針の筵で、八方塞がりで、かといって「このままでいいや」と諦めることも許されない。
地震なんか自然が自分自身を守らん、自然が自然をいじめてるように見えるよと、自然同士はライバルなんやっけ、人と自然がライバルか、何と何もがその場での関係やろう。
「知る」ということ
直人は当時関東にいたから震災をよう知らへんで、それでもう私より知っていることは一つ少ない。知っているということがいいことやとは思われへん。
私が産むまでは、子が大きくなるまでは、子の寿命が尽きるまでは、地震なんか起こらんでほしいと祈った。知っているというんは、呪われていると同義やろうか、恨みの星のもとに生まれてしまったか。
1995年、神戸にいた私たちは震災というものを「知って」しまった。たまたまこの時、この場所にいた、というただそれだけの確率で。
社会的に広げて見れば、「あの頃の経験が東日本大震災などのボランティア活動に活かされた」などと言うこともできるだろう。確かにその通りなのだろうけれど、反面、「そうとでも思わんとやってられへん」だけじゃないかと思ってしまうのは、私が捻くれすぎだろうか。
「この経験がのちに活きたと言い張らんと、自分達が見舞われた不運に意味を見出されへん」ということじゃないのか、と。
そりゃ、どんな経験だって後に生きる。なぜなら経験してしまった自分は、「経験していない自分」には戻れないから。その経験を経た自分は、どうしたってその経験をふまえた未来を生きてしまう。「あの経験はなんにもならなかった」なんていうのは詭弁だろう、「でもその経験の上に、今のあなたがいるんですよね」と言われたら返す言葉がないだろう。
でも、それを「知る」ことは果たして良いことか。
知らずに済むならそれでいい、そいうことがこの世界には溢れていないか。
知ってしまうことで「知らない人」との間に溝ができ、知ってしまうことで恐れが増え、知ってしまうことで恨みが増える。知るとは呪い、まさにその通りじゃないだろうか。
知ってしまったその先の世界を、銅子は、厚美は生きている。
知ることが「良かった」「良くなかった」という評価は脇に置いて、とにかくその先にある自分の人生を生きるしかない。
厚美が生きる2022年、2024年。その姿が自分に重なる。
知ってしまった彼女も「今」を生きている。
物語を締めくくる最後の一文、これはどんな意味の言葉だろうかと考える。
どれほど遠くても、時間を超えた時間というんは、ないもんやろうか。
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