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【映画】セッション ー 師匠との出会い、そして巣立ち

映画「セッション」をみました。 

ドラマーの端くれとして見ておかねばならない作品。(と言っても割とながら見だったのですが。)

 

音大に通うドラマーの主人公が、名匠が指揮するバンドにウキウキ加入するも、その名匠がとんでもない二重人格者(※個人の印象です)で、その有刺鉄線のような鞭とちょっとの飴に翻弄されながら文字通り血と汗の特訓をしていく作品。

ちなみに「セッション」というタイトルから、文字通り二人で即興二重奏でもするのかと思ったけどそうではなく「指揮者と演奏家」のセッションということだった。

 

事前の評判でスパルタ特訓だということは知っていたけど、それにしてもここまでとは思わなかった。限界を超えても叩き続けて手が血まみれになっていく様はちょっと見ていられない。何より、師匠に無理やり叩かされているのではなく、主人公が自ら、師匠に認められたい一心で血まみれになっても叩くのをやめない様はまさに狂気を感じた。

中盤、本当に人としてちょっとヤバイぐらいドラム狂になっていく主人公が、見てて痛くて痛くて仕方がない。

なので痛々しいのが苦手な人にはあまりオススメできないけれど、でも個人的には期待していた以上に素晴らしい作品だった。

 

 

少し話はそれるけど、内田樹さんの唱える「親族の基本構造」の考え方がある。

親族の基本構造 (内田樹の研究室)

こちら以外の文章でもこの考え方については触れておられるが、ネットで見つかったのはこれだった。この考え方が私にはとてもしっくりきていて、何かとこれについて思い起こすことが多い。

こちらの文章から引用させていただく。

タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。
これは私の経験的確信である。
この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。
この二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件なのである。

 

「タイプの違う二人のロールモデル」。

大抵、そのうちの一つは「親」になる。さらにもう一つは、親戚のおじさんであったり、教師であったり、師匠や監督であったり、教会の牧師さんであったり、はたまたもう一つには出会えないままだったりする。

 

「セッション」をこのモデルに当てはめてみれば、一つ目のロールモデル「音楽ゴコロがちっともない家族たち」、そして二つ目のロールモデル「二重人格のスパルタ師匠」である。

スポーツ一家で、音楽の道を志すとはどういうことかを真に理解し導いてくれる人が家族の中にはおらず、居心地悪く感じている中で出会った憧れの師。

理解のない家族から反発する勢いで、主人公は師匠にどっぷりハマり込む。どこまでいってもイマイチ自分のドラムを評価しれくれない親兄弟は放って、スパルタ師匠に評価してもらうことが自分の存在理由の全てになる。師匠にすがりつく動力があまりにもすごくて、可愛くて非の打ち所のない彼女のことも切り捨て、自分の健康な体や健全な社会生活までも切り捨て、気まぐれな師匠に捧げ込む。そんな彼の痛々しい狂気が、冒頭に触れた血まみれドラム狂状態である。

 

しかし、彼は決して、師匠に全てを捧げて人生を棒に振るようなことにはならない。

「家族」という極から全力で反発し「師匠」へと振り切ったメーターは、再び「家族」の存在によって「自分」を取り戻す。「家族」の元には甘んじないが、「師匠」だけが目的ではない。そのことに気づいた主人公は、「家族」も「師匠」も乗り越えて、一人の意志あるドラマーとして、自立した人格のある人間の一個体として、家族と師匠に対峙する。

二人のロールモデルを乗り越えた先に、彼の、彼だけのドラミングを手に入れる。

その瞬間が、圧巻のラスト・ドラムソロだ。師匠と弟子の上下関係ではなく、別個の意志ある「二人」のドラマー同士の見事な「セッション」

 

107分の間に、この「第二のロールモデルとの出会い」から「二つのロールモデルからの巣立ち」が見事に凝縮されている。

 

これは単純な「スパルタ師匠のお陰でスーパードラマーになった」というスポ根映画ではない。一人の青年が心身の葛藤の末に自我を獲得するその成長の過程を追う、壮絶な、そして学ぶべきことの多いヒューマンドラマである。