今年はちょっと社会学に力を入れよう、と思い、本を読んでいます。
たまたま書店で見かけた「面白くて眠れなくなる社会学」(橋爪大三郎、PHP出版)がたいへん面白く、またその時々の社会的な関心ごとに応用できる話ばかりなので、備忘録もかねて思うところを書いていこうと思います。
<言論の自由>
1月17日に、フランスの週刊誌「シャルリー・エブド」が襲撃される事件があった。
世界中の人々が「言論の自由」について考えさせられる、驚きのニュースだった。
ひとには、言論の自由がある。
好きなことを思っていいし、言っていいし、書いていい。
でも、誰も彼もが好き勝手なことを言うと、傷つく人や、悲しむ人や、怒る人もいる。
だからあまり何でも口にするものではなく、相手の気持ちを考えるとか、思いやるとか、TPOを考えるとか、そういうことを人は成長とともに身につけていく。
「シャルリー・エブド」は言論の自由の象徴みたいなものだった。でも見た人の気持ちを思いやっていたかどうか、たぶん思いやってはいなかった。それがユーモアだ、という文化的な背景もあろうと思う。
では、彼らはもう少し思いやるべきだったんだろうか。
誰かが傷ついたり怒ったりしないように、言論の自由を抑制すべきだったんだろうか。
なぜ「言論の自由」が必要なのか。
それは別に、自分が我慢しないためとか気ままに生きるためではなくて、「社会が成長していくため」なのだ。
橋爪氏の本の内容をお借りしながらいくと…言論の自由があれば、討論ができる。自由に考えたことを発言できて、良い考えをどんどん取り入れられる。イマイチな考えや意見は論破される。そして特に良い考えは、文字によって先の未来にも、また遠方にも伝えることができる。
「言論の自由」のもとで議会が討論を重ねて、より進んだ法律を作れば、人は今までよりも自由になれる(これまで社会に埋もれてきた人たちの権利が解放される)。そのような、社会の「自由」への前進のためには、「言論の自由」がまず何よりも保証されて、討論が自由に行えて、良い意見が自由に言えるようでないといけない。「言論の自由」は人類の進化の根底なのだ。
また、思いやりのない発言は、結果として社会が間違った方向に進まないためのお目付役になる。
たとえば、国の医療費削減のために新薬よりも安い「ジェネリック医薬品」が登場して、国はちゃんと品質を認めて推進しているし、実際にどんどん利用が広がっている。それでも「あんなもの信用できない」と頑なに否定する専門家もいる。
そういう、ちょっと頑固みたいに見える人たちの意見こそが、社会が変な方向にいかないためのアンカーになる。ジェネリック医薬品のメーカーは「否定派の人がうるさいから、品質の良さを徹底して信用を損なうな」と、細心の注意を払って薬を作るようになる。
誰も彼もが「いいんじゃない、それが全体の流れなら」と言うような社会だったら、メーカーの製品管理がずさんになったり、まちの風紀が乱れたり、いつの間にか独裁者がいたりするかもしれない。
「この人の言うことは聞きたくないなぁ、みんなと違う意見で口やかましいなぁ」と思ってしまうような人も、社会の中ではなくてはならない役割を果たしている。
個々人のレベルで、誰かが傷つくとか悲しむとか、それはまた別の問題として、
人類が前進していくためには、「言論の自由」は決して制限してはいけないのだ。
第一、誰も彼もが良い言葉しか言わなくて、みんなニコニコしかしてなくて、誰も傷つかず誰も悲しまず誰も怒らないような社会なんて、気持ち悪くって仕方がないのだ。
<参考文献>