旅するトナカイ

旅するトナカイの旅行マンガ ・ たまに短編小説 ・ 本と映画レビュー ・ 初心者社会学 ・ 日々考えること

【社会学#10】愛されないほど独裁者になれる

私は世界大戦というものを生々しい実感をもって知ってはいないけれど、

どうやら日本が戦争というものに向かっているらしい危機感は、肌で感じている。

 

しかし不思議だ。

ネットではこんなにも反戦護憲の声が溢れ返っているのに、どうしてそれでも戦争に向かっていくのか。

ここが民主主義の国ならば、それらの声を束にして集めて政治の議論の場に持ち込めば、たちまち戦争などという物騒なものから遠ざかれるはずである。

しかしそれらの危惧に反して、首相がまるで個人の私利私欲のために戦争を押し進める独裁者かのように語られ、民主主義のシステムによって彼を止めることはどうやらできないでいるらしい。

 

いまになってふと、思う。

ヒトラーはドイツ国民に支持され、愛された独裁者だったのだろうか。

ヒトラーのカリスマ性のあまり、ドイツという国は差別と戦争に転げ落ちたのか。

 

どうやら、そういう訳でもないんじゃないか。

 

当時のことにも今のことにも詳しいわけではないが、

民主主義の国において、大多数が「無関心」「無気力」であることによって、独裁者は生まれるのではないだろうか。

なんとなく政党には反対だけれども、どうやって主張すればいいのか分からない。デモも、署名も、投票も、自分一人が動いたところで大した意味がない気がする。誰かが政治家に意見を述べるけど、ちっとも聞く耳を持たれないから、もう放っておくしかない。

自分という個人が、国家の運営に対して無力であると思えば思うほど、「だったらもう好きにすれば」と無関心になる。どうせ自分の意見は聞き入れられない。お山の大将がなんだかやかましくわめいているけど、まともに取り合っても議論にならないから、放っておこう。

 

それは、民主主義の主体による、民主主義の放棄である。

民主主義のシステムを作っても、それを機能させる気がない国は、民主主義国家にはなりえない。

独裁者は、ただ、みんなの意見を聞かないふりをすればいい。そうすれば、国民が政治的に無気力になり、誰も何も言ってこなくなり、愛されなければ愛されないほど、ごくごく数人の熱い支持者だけを得て独裁者は独裁権を手にする。

日本は、そのようになってはいないか?

 

正直、自分の日々の生活で忙しいんだから、そういうことは偉い人たちや専門家でうまいようにやっておいてくれよ、というのがいち市民の感覚である。

現代人のライフスタイルや実態に合った政治参画のシステムの改築も課題ではある。

 

しかし、既に独裁者は、国民の無力感を煽り独裁権を握り始めている。

私たちには何ができるか。

 

最適解ではなくとも、ひとつの解として、司法というものがある。

司法による判決は、政治とは違う形で力を持つ。

三権分立の中でなんとなく市民のなじみの薄い「裁判所」。そうだ、そういうものもあった。それだって市民が使える政治機能のひとつだ。

それをどう使うのかは、この本にとても分かりやすくまとめられているので、イラク問題がどうとか政治思想がどうだとかは抜きにしても、裁判というものを知るためにぜひご一読いただきたい。

 

裁判というものがあまり一般的ではないので、メディアの判決文の読解力や政治家における判決の軽視はまだまだ課題ではあるが、判決は、何十年も生き残る近代国家の更新され続けるバイブルである。

そしてそのバイブルのページを足すのは、一人の市民である、裁判官なのだ。

 

判決のたった1件だけでは、おそらく大きな力は持ち得ない。

それは選挙における私の1票も、ネット記事の1枚も、このブログも、同じことだ。

けれど、その1つが積み重なって国家を動かしていく。

 

私たちは無力かもしれない。

でも無気力になってはいけない。