わたしは暇だった。まさか看板持ちという仕事が、ここまで暇なものだとは思わなかった。いや、正確に言えば、看板すら持っていなかった。ただ交差点に向かって歩道の角に腰掛けているだけの行為が、ここまで暇なものだとは思わなかった。
朝から休みなく降り続いている雨は、ずっと同じ速度でこまかな細い線を視界に落とし続ける。それらが地面を打つ音は静かで、草原が風に吹かれてささやいているようでもあった。その雨のおかげでわたしは、雨傘をずっと掲げておらねばならず、傘と看板を同時に支えていると体が濡れてしまうので、看板はすぐ後ろのフェンスに立てかけた。
何度腕時計を覗いても時間は一向に過ぎておらず、袖をめくるたびにがっかりするのでしばらくは時間を確認しないことにした。道路を挟んで左手にある家の、二階の窓の電気が点くまでは、とルールを決めた。
暇つぶしの一環に、通り過ぎる車のナンバープレートの数字を足したり引いたりして、ぴったり10にするという遊びをしてみた。脳のトレーニングにもなる。そしてそれは、実際それなりに暇つぶしになった。
赤信号で止まった数台の車の中に「み ・333」という番号を見つけた。おそらく「み 3333」が既に使われていたのだろう。この車の持ち主はさぞ悔しかったに違いないと、勝手な想像をした。
信号が青に変わり、止まっていた時間が動き出すように、車がまた滑り始める。消えたブレーキランプの残像が、雨粒の中に留まっているように見えた。
右手の方から少女が近づいてくるのに気づいたのはそのときだった。透明のビニール傘を持ち、ジーンズに灰色のパーカとラフな格好をしている。雨のせいもあり、顔まではわからなかったが、興味もなかった。
その少女がわたしの前で立ち止まり「こんにちは」と声をかけられたときは、すぐには反応できなかった。言葉が発せられたと気づくのに時間がかかり、一瞬携帯電話で話しているのだろうかと思ったが、それが自分に向けられているのだと知るのにさらに時間がかかった。雨のため人通りは少なく、通るとしてもこちらのことなど目に入らないかのように足早に過ぎていく人間ばかりだったから、まさか自分が話しかけられるなどとは、心の準備どころか思いもよらなかった。透明人間が超能力者に見破られたときの心境とは、こんなものだろうか。
「こんにちは」
彼女は確かめるように繰り返す。わたしは曖昧に返事をした。
「おじさん、暇?」
まさか金でもせびられるのではあるまいな、と警戒する。こちらには金がなく、ないからこうして看板の前に腰掛けているというのがわからないのだろうか。傘を浮かせてよく見ると、少女はあまり利口そうには見えない顔をしていた。化粧っ気がなく、剃っているわけではないであろうに眉はほとんどなかった。髪の色は自然だったが、頭のてっぺんにパイナップルの葉のように束ねているのが、無造作に括った結果なのかファッションなのか、判然としない。
「私、暇でさ。暇だから散歩してたんだ」
ああ、そう。そうとしか、答えようがない。確かにこちらも暇だったが、進んで誰かと話したい気分でもない。
「おじさんそれ、楽しい?」
それ、というのはつまり、看板持ち、もとい看板をフェンスに立てかけてその前の座り心地の悪い椅子に腰掛け車のナンバープレートを追う行為、を指すのだろう。
「楽しそうに見えるか」
「見えない」
中学生か高校生くらいの少女は、傘を右手に持ち、左手をパーカのポケットに入れたまま、わたしの隣にわたしと同じ方向を向いてしゃがんだ。長らく居座るつもりなのだろうか。看板持ちの仕事には、暇な若者の話し相手も含まれるのだとは知らなかった。
しかし少女はそれきり、話題を持ちかけることはせず、ただわたしの椅子の横にしゃがんだまま、ずっと同じ姿勢で前を向いていた。何も話さないのであれば気にすることもあるまいと視線をそらしてみたが、つんとした、しかし距離を離さない存在感が右腕を擽ってくるようで、犬が隣におとなしく座っているような感じがした。
左へ目を移すと、道路を挟んで向こう側の家の二階の電気が点いている。腕時計に目を移しかけて、いややはりこの少女が去ってからに延期しようと決めた。
少女の声は、さらさらと地面を打つ雨の音に乗るようにこちらに届いた。
「行方不明になったんだぁ。うちの犬」
何の話が始まったのかと思ったが、胸の空気を汚す不安を吐き出したいというのであれば協力してやるのがいいのではないかと思い「いつ?」と促してみた。悩みを聞いてやる義理はなかったが、何よりわたしは暇だったのだ。
「けっこう前」
けっこうとは漠然とした回答だな。
「黒いラブラドールなんだ。本当は今日も、散歩じゃなくてその子を探してるんだけど」
重いトラックが通り過ぎる。大きなタイヤが地面を振動させ、道路を漂う雨水が驚いて叫び声をあげたようだった。
「早く見つかるといいけど」
空が暗いせいだろうか、少女の声や面影には、もう見つからないのではないかという予感がひそんでいるように見えた。
「おじさん言ってよ、大丈夫、すぐに見つかるよって」
「…大丈夫、すぐに見つかるよ」
「あんたに何がわかるんだよ、人事だと思いやがって」
「お前が言わせたんだろう」
「その通り」
愉快そうな声が雨粒に流し落とされ、その残り香のようなものだけが宙を漂う。
遠くで車のクラクションが響いた。まさかその犬は轢かれたりはしていないかという想像が頭を過ぎる。見ている限り、この辺りは車の通りも多そうだ。大型車も走っている。おそらく少女自身も、そんな不快な想像に頭を悩ませたに違いない。
わたしの考えを読み取ったかのように、少女がまた口を開いた。
「動物を轢くのは、いけないことだよ。人間轢いても、動物は轢いちゃいけない」
「人間もいけないだろう」
「動物の方がだめだよ。道路も交通ルールも、人間が勝手に作ったんだから。動物が飛び出してきたら、何が何でも止まんなきゃいけない」
それは無理な話だろう。心の中だけで言った。
「動物轢くのは、いけないことだよ」
彼女は確かめるように繰り返した。そちらを見やると、左手をポケットに入れたまま、思いつめたように、両目はどこか定まらない宙を眺めていた。瞳はまるで黒いシールを貼り付けたようにのっぺりとしていた。
視線を前へ戻す。やはりその存在感は、黒い犬が隣に座っているような感じだった。
「いけないことだよ」
少女の口の隙間から漏れた音は、雨粒の隙間をくぐり、かろうじてこちら側まで届いた。
もしや彼女の犬は既に車に撥ねられていて、そのショックで彼女は今も既に存在しない飼い犬を探し回っているのではないかと疑ってみた。
道路を勢いよく行き交う車を眺めた。ゆっくりと右折してきた車のナンバープレートに「み 3333」と書かれているのが目に入った。この車の持ち主は、してやったりと思っているに違いない、と勝手な想像をした。