旅するトナカイ

旅行記エッセイ漫画

運転士

ドン、と車輛が揺れたかと思うと窓の外の景色が止まった。
周りを見ると、何が起こったのかと目を泳がせる人もいれば、すぐに納得してスマートフォンを触りだす人もいる。車内は奇妙な沈黙に包まれる。誰もが何かを発したいはずなのに誰も口を開かない。耳鳴りが遠くでしている。
静けさが頭痛を呼びかけた頃、車内アナウンスが流れた。
予想はできたが、人身事故だと認定されると、喉の奥にずしんと重みが落ちる。
だって、これは、税所くんの電車なのに。


税所(さいしょ)くんは、とても優しい人だった。
その優しさに惹かれて、大学3年生の時に私たちは付き合った。彼は気さくなのに、とても真面目で、真摯だった。
けれど、優しさが必ずしも人を幸せにするとは限らない。
彼は優しすぎた、誰にでも。誰からの誘いも頼みも断らなかった。誰にでも可愛がられ、時には、都合よく使われた。目の前の人が悲しむのを見たくないために、自分を犠牲にしたし、それがひいては私を犠牲にしていた。
「どうして、そんなに優しくするの。それにつけ込まれてるのが、わかんないの」
訴えると、彼は苦い顔をして黙り込んだ。いつも笑って他人を許していた彼の、初めて見る、困った顔だった。そんな顔を見せる彼に、そんな顔をさせてしまった自分に、私はもっと泣いた。今思えば、困っていたのではなくて、「どうしろって言うんだよ」っていう顔だったのかもしれない。
私たちは8ヶ月で別れた。私は就職して、彼は大学院に進学した。


私が社会人4年目になった年の、夏だった。
その年は例年にも増して暑かった。大学の同窓会が近づいていた。
会社の最寄りの始発駅で電車に乗り、シートに座って発車を待つ。待ち時間の埋め合わせのような車内アナウンスを聞き流していたら、耳に覚えた名前が通った。
「当列車の、運転手はむらやま、車掌は、さいしょです。本日も、安全運転につとめて参りますーーー」
そんな名字の持ち主は、彼しかいない、と思った。
4年間忘れていた、彼との時間が脳内で蘇る。
「変わった名字」と最初に話しかけた。「お役所っぽい」とからかった。「結婚しても、私は自分の名字がいい」とごねた。彼はそのどれに対しても、いつものおおらかさで笑っていた。
ーーーそうだ、彼は列車での旅が好きだったーーー。


「税所くん」
同窓会で再会した時には、5年ぶり近くになっていた。
大学で伸ばしていた髪は短く刈られていた。眼鏡が外れていた。大学では見たことのないシャツを着ていた。
「この間、聞いたよ。車内アナウンスで」
「ああーーー」
彼は驚いて、そして、あの、おおらかに笑った。
「私、いつもあの線で通ってるの。時々、税所くんの名前、聞くようになった」
「地元に配属されたんだ。そうか、春田さん、今住吉で働いてるのか」
その日、お互いとっくに買い替えたスマートフォンの連絡先を確認し合って、私は2次会に行かなかった。


私にはもう付き合って1年半になる彼氏がいた。結婚を考えていた。
税所くんとは月に数回、連絡を取り合った。週に1、2回、車内アナウンスで彼の名前を聞いた。途中から、肩書きは「運転手」に変わった。私はそのことを心からおめでたいと思った。
昔付き合ってた人、だけど、今でも嫌いな部分はひとつもない。苦い思い出もほとんどない。でも無論、今からよりを戻したいなんてこれっぽちも思わない。そうするには、過去の体験は私には怖すぎた。人の善さというものに、あれほど自分が傷つけられるものだとは思っていなかったし、もう、思いたくもない。
でもあれは、あまりに好きだったからこその傷だったのだ。
好きで好きで、その想いが叶っているはずなのにぼろぼろになってしまう、そんな体験をした相手は彼だけだった。


そんな彼が運転する列車が、過って人を轢くなんてことが、あるはずない。
悪いのは飛び込んだ方だ、税所くんはとんだとばっちりだ。
確かに私たちは足止めをくらって、車内には急いでいたから困っている人もたくさんいるはず、だけど、運転手のせいじゃない。車内アナウンスは淡々と謝るけれど、私は知ってる。知ってる。
どれくらい待ったか分からない、傾いていた太陽がすっかり見えなくなった頃に列車は動き出した。時計を確認する気力もなかった。彼氏のメールも気づかなかったことにした。


「大変だったね」
どうして税所くんに電話をしたのか、自分でもよく分からない。
「私、乗ってたんだ。電車の中、すっごく静かだった」
『ごめんね、通勤時間に』
彼の声は乾いた冬の風のように爽やかだ。窓の外は、冷たい空気を裂くように星が光っている。
「人身事故?」
『うん、詳しいことはアレだけど。この時期になると増えるんだ』
声から察するに、彼の顔は「あのとき」ほどは困っていない。ああ、こんなこともこうして許してしまえるほど、あなたはおおらかだったんだっけ。
「平気?」
『まあね。最初はさすがにへこんだけど、これだけやってると、なんていうか、よくあることだから』
お酒を飲んでいたかもしれない。私だったからかもしれない。
けれど、たとえそうでも、私は喉を詰まらせずにはいられなかった。
優しすぎる彼が悪かったことなど一度もないのだ。
悪いのは世界の方で、悪かったのは私の方だ。彼の優しさを疎んでしまう、純粋さを歪めてしまうのは私たちで、彼は、ただただ彼なのだから。
なにが、こんなことをさらりと言えてしまような彼に、してしまったのだろう。彼のせいではきっとない。