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震災という言霊について

先日、神戸のイベントについて記事を書きました。

www.fusakonoblog.com

この件に関して、その後に知った情報もあるのでいろいろと追記したい気持ちもあるのですが、本筋が変わるものではないのでやめておきます。

 

 

あの後にも「震災」について考えることがありました。

本来であればこうして言葉で発信するようなことでもないのですが、今以外に言う時もないと思うので思考の形跡として残しておきます。

 

震災について語る際、前回の記事では、悩んだ末に「震災という聖域」「言霊」という、ちょっとスピリチュアルな言葉になってしまいました。これ以外に、この感覚に近しい単語が見つからなかったのですが、自分でも「なんとも胡散臭い言葉選びになってしまったなぁ」と思います。

その後、「聖域」「言霊」というのをもう少し言語化できないかと思って考えたのが、今回の内容です。

 

あらかじめ書いておきますが、この考え・感覚は震災を経験した方すべてに当てはまるわけではないと思います。震災で見たもの・経験したこと・それ以降すごした時間は当然ながらそれぞれです。あくまでいち個人の考えたことです。

 

「震災」があった場所にいる、ということ

私は阪神淡路大震災を神戸で経験しました。といっても、大きな被害にあった訳ではありません。

 

しかし、神戸や、阪神淡路の地域で暮らすということは、あの地震によって大切なものを失った人が常に隣にいる「かもしれない」状態にいるということです。隣にいるその人がそうでなかったとしても、その人の親友が失った姿に胸を痛めた経験がある、という可能性もある。

そういう場で暮らすに当たっては、「震災」について語る場合にはことのほか注意が必要です。どんな言葉が、誰を傷つけるか分かりません。自分はそんなつもりじゃなくても、聞く人によっては癒えない傷に障られたように感じるかもしれない。「私の家族が無事で良かったわ」という言葉が、家族を失った方の胸を抉るかもしれない。自分の口をついて出た一言で、目の前の人が泣き崩れるかもしれない、激昂するかもしれない、そういう状態です。

傷が癒えるのにかかる時間もそれぞれですし、傷が永遠に癒えない人もいるかもしれないので、これには「時効」などというものはありません。一度 経験したからにはずっと、「かもしれない」状態は続くのです。

 

そんな中で暮らしていると、「震災」について触れることがいかにナイーブかというのは、肌身に染みて身につきます。

だから「震災」という言葉を使うときは、「こんな経験をした人だったらどう感じるか」「あの場所にいた人だったらどう思うか」といろいろな人のことを想像して、さらには「自分が想像もつかないような経験をした人がいるかもしれない」ということも折り込んだ上で、はじめて発せられる。

その、「震災」やそれに関連する「鎮魂」「復興」という言葉を思い浮かべただけで、脳内で「かもしれない」人たちへの想像力が わっと働く作用のことを、私にはまるで言葉から霊魂が立ち現れるかのように思われて、それを「言霊」と呼びました。

 

「震災」が「阪神淡路」を指さなくなって

2011年、東日本大震災がありました。それまでは「震災」といえば「阪神淡路大震災」だったのが、そうではなくなりました。

2016年には熊本でも地震がありました。

 

この、「震災=阪神淡路」ではなくなったという、この感覚。

思い浮かぶことをどんなに列挙しても、適切な…上記で言うところの「言霊」を鎮められるような、一切誰も傷つけないような言葉にはなりません。「かもしれない」状態に居続けると、具体的な例はどうしても誰かを傷つける「かもしれない」と思われてしまう。

 

たとえるならば、それぞれがコップをひとつ持っていて、そこに水が入っているとします。日々の喉の渇きを潤したり、生きていくための水です。

ある日 突然、自分のコップの中身が忽然と消えてしまう。

喉を潤すことはできず身体はどんどん渇いていく。そもそもどうしてこんなことが起こったのか…疑問に感じ、恐怖を抱く。

しかし周りの人がそれに気がついて、水を分けてくれたり、自分でも水を増やす努力をして、なんとかコップの中の水の量は増えてきた。

 

2011年までの阪神淡路は、そんなような感じです。

「コップ」や「水」が具体的な何かを指しているわけではありません。「震災」や「復興」を経験するとどんな気持ちになるか…というのが、「コップの水が突然なくなった時」どんな風に感じるか、「水が増えてきた時」どんな風に感じるか…にイメージとして近いのでは、という思考実験的な例えです。たとえ方そのものが実態に即しているわけではなく、「もしこんなことがあった時、どんな心情になるか」というところに重きを置いています。

 

さて、コップのたとえを続けます。

そんな折に、自分とは別の人のコップの中身がなくなってしまう。

コップの中身がなくなった時の気持ちは、経験しています。相手がそれと全く同じ気持ちかどうかはわかりませんが、少なくとも自分にとってはおそろしい体験だった、ということは確かにわかる。それが他の人のコップでも起こってしまった。

そうなった今、今度は自分がコップの水をそちらに分けたり、分ける余裕がなかったとしても自分が手を挙げて水を欲しがるようなことは控えよう、と思う。もし誰のものでもない水があるのなら、まず最初にあちらのコップに注がれればいいな、と思う。「あの時の自分」と重ねて、「あの時の自分ならどうだっただろう」という思考で行動したり、慎んだりする。

 

「水」といえば、もはや自分ではなく「あの人のコップ」に注がれるべきもの。

自分のコップの水は、水位や色、味など、以前と全く同じ様態というわけではありませんが、しかし中身がなくなったあの瞬間とは違う。

 

 

自分のコップの中身を静かに見つめる時に、それぞれの心の中に浮かぶことごと。

「震災が、阪神淡路大震災ではなくなった」ということについて、この地域に暮らす人は、そんな風に静かに、自分の中でそれぞれの折り合いをつけて行ったのではないかと思います。

 

神戸で「震災」を掲げない理由

上記の「コップと水」のたとえ話の続きです。

 

突然、ある人から「水をあげるよ」と声をかけられます。

どうして? 水といえば、自分じゃなく、水に困っているはずのあの人のところにまずは届けられるべきなのに?

 

まさか自分がそんな風に声をかけられると思っていなかったので、驚きます。

そして、困惑します。

 

いま水を必要としている人が…かつての自分が、この光景を見たらどう思うだろうか。

「せっかくですが辞退します、どうかその水はあの人のコップに」と言っても、まるで自分のコップには余裕があるみたいで、嫌味っぽいかもしれない。

かといって「ありがたく頂戴します」と受け取るのもはばかられる。

水がない状態を経験すると、ふとした言葉や態度が誰かを傷つける「かもしれない」ことを学びます。この差し出された水に対しては、どんな対応をしても誰かを傷つけてしまう気がする…でも、差し出されたからには何かしら返事をしなければいけない…。

 

そう、一言で言うと「気まずい」のです。

 

「水といえば、あの人のコップへ」。それは暗黙の了解として、周知されているはずです。

よほどその水に、こちらのコップに注がれるべき理由があるのなら話は別です。腐りやすい水なのでここまでしか運べないとか、このコップでなければ注げない仕組みだとか、自分が受け取らなければたちどころに水が無駄になってしまうようなのっぴきならない理由があるなら、それは受け取ることができるでしょう。

しかしそうでないのならば、こちらのコップに水が運ばれて来ることは、決して喜ばしいこととは限らないのです。

 

自分のコップの水が、全体の中で多い方か少ない方か…水はあの時よりどのくらい増えたのか減ったのか…それは手の中にあるコップを見つめて、自分の中で静かに思うことです。

自分よりも後にコップの水がなくなってしまった人が見ている前で、「私のコップの水はこんなにも増えましたよ!」と見せびらかすようなことは決してしてはならない。「これくらいしかありません」とも言ってはならない。「自分のコップの水については、言わない。」自分以外にコップの中身が減った人がいるとき、自分にできることはそれだけです。

 

「震災という聖域」とは、そういうことです。

「私は傷ついているのだ」とか「経験していないくせに」とかいうことが言いたいのではなく、どちらかというと「不用意に口にすると嫌な気分になる人がいるかもしれないので、その話はまた、人目のない時にでも」ということです。事なかれ主義的ですが、意図せず人の傷に塩を塗ってしまうよりは静かにしていた方がいい。

なにも、神戸ではもう「震災」というワードがタブーになっているとか、そういう話ではありません。身内同士で「阪神大震災の時、自分はどこでどうしていて」と語ることはもちろんあります。むしろ語り継いでいくことに意味がある。

でも「震災」を語るときは常に、東日本は…熊本は…という想像力を働かせる必要がある。

それは、冒頭で記した「かもしれない」という想像の範囲が、顔の見える人たちだけではなく遠い地域の人たちにも広がったということ。慎重に言葉を選び、自慢げに見えたり、自己憐憫に見えたりしないよう、文脈を考えて発する。それでも、自分の想像もつかなかったような傷つけ方をしてしまう可能性がある。だから、言う必要がない時にはそもそも何も言わない。

 

同じ「震災」について語っていても、すんなり受け入れられることと、引っ掛かりがあることがあります。その差は、「かもしれない」をどれだけ測れているか、「あえて言う」理由がどこにあるか、なのではないかと思います。 

 

最後に…「言わない」鉄則をあえて破った理由

上記で書いた通り、この記事そのものについても、本来であれば自分の中で静かに思うことであって、こんな風に発信するようなことではありません。

ただ、前回の記事の話題で、「震災」について言われるのがどうしてこんなに嫌だったのか、「軽々と踏み込まれた」と感じた(相手にとっては「軽々と」ではなかったのかもしれないのに)のはなぜだったのかをもう少し追いかけて考えてみたところ、「自分はもうコップの水について言うつもりはないのに、不意に水を差し出された時の気まずさ」なのだという結論に達しました。(例えとしては、「水を差し出された」というよりも「コップに水が増えたね!」と身内が大声で言い出した…という方が実態には近いのかもしれません。が、私がこの話題を知った時の印象は「差し出された」という感じでした。)

「聖域」とか「言霊」とか、あいまいな言葉ではぐらかすような言い回しを、もう少し捉えやすいものとして記述できないかと言語化を試みた結果です。2011年から今までで感じていたことを、今の時点で及ぶ想像力と、引き出しの中にある言葉で表現したものなので、この先まったく違う考え、違う例えになる可能性もありますが、現段階のものとして。

 

前回の記事からの地続きで考えているので、この件について新たに何かを調べたり情報を集めに行ったわけではありません。

前回の記事の言語解説という程度の位置づけで捉えていただければ幸いです。