20代の頃は、アカデミー賞やカンヌに選ばれる映画に「けっ」と思っていた。あんなものは所詮、権威主義と政治の世界。私は私の感性で私だけの名作と出会うのよ……なんて思っていた。
しかし歳とともに自分も丸くなり数々の作品と触れるなかで、「やっぱ権威のある賞を獲ってる映画、面白れぇわ」と思うようになった。少なくとも安定して観客を楽しませる一定の水準は確実にクリアしているし、好みに合う・合わないはともかく芯の通った力作を観たという実感は得られる。
そんな感覚をガラガラと打ち砕いてくれたのが、2024年カンヌ国際映画祭で監督賞にえらばれたミゲル・ゴメス監督『グランドツアー』である。

予告編
予告編、良くないですか? なんか素敵じゃないですか?
男女のドタバタ逃亡劇を、キッチュでキュートなコメディで見せつつ、映像の世界旅行を楽しめそうじゃないですか?
そんなことないから。
いや、嘘はついてない。予告編詐欺ってほどではない。
けど全然違う映画だから。
※全てのネタバレを含む酷評記事です。お気をつけください。
目次
あらすじ
1918年、ビルマのラングーン。大英帝国の公務員エドワードと結婚するために婚約者モリーは現地を訪れるが、エドワードはモリーが到着する直前に姿を消してしまう。逃げる男と追う女の、ロマンティックでコミカルでメランコリックなアジアを巡る大旅行の行方は…。
学生ががんばって作った自主制作映画?
まず観客を迎えるのは、東南アジアのレトロな影絵や、古い遊園地で人の手で漕ぐ観覧車。
そこにアジアの言葉で、ナレーションが淡々と被さる。
1918年、英国の公務員エドワードが結婚ギリギリになって怖気付いている…みたいなことが語られる。
静かだ。
なんか…。哀愁がある。
なるほどこれは観客のほうから手を伸ばして掴んでいかなきゃいけないタイプの映画だ、と開始数分でわかる。
よかろう、難解なマイナー映画だろうとしっかり楽しんでやろう…と腹を括る。
画面がモノクロに変わりやっと主役が登場したと思ったら、こんどは素人目にも低予算な激狭セットでなんとか成立させている…みたいな映像。
エドワードは結婚式用の正装で花束まで持っていたのに、ほっぽり出して逃亡をはかる。船に乗って一路ビルマ(現在のミャンマー)へ、男と女の逃亡劇が幕を開ける…。
行く先々でトラブルに巻き込まれながらビルマからシンガポール、バンコク、サイゴン(ホーチミン)、マニラ、大阪、上海と旅をする。
そしてその場所での映像は、なんと、1918年の舞台設定とは似てもなつかぬ2020年現代の映像なのである。「つい最近、旅行いって街中でカメラ回してみました」みたいな旅の記録映像。気持ちばかりモノクロ化して「1918年ぽさ」は出している。
そしてそれが終わると、またやっすいせっまいセットで俳優たちが出てくる演技パート。舞台セッはどれもチープで、それもB級映画的なかわいい仕上がりではなく「予算がないからなるべくアップで背景がバレないように工夫したんだなぁ」というのがありありとわかる。英国人同士がポルトガル語で会話していたり、現地人が外国語ペラペラだったりととにかく違和感だらけ。その繰り返し。
安い。
すべてが、安い!
「男女の逃亡劇で、1918年のアジア大旅行を見せる」という構想は思いついたものの、時代考証をふまえ設定を忠実に再現する予算はなく、なんとかかんとか場当たり的に形にした…て感じ。
「辻褄を合わせる」ということを放棄し、「観客が想像力で補ってくれるはず」と受け手の善意に全乗っかりした…いや、そこまで深くも考えず「これでええやん(ケロッ)」で作られたような軽さと安さなのである。
許せない長さ
そしてこれが、とにかく、長い。
長すぎる。
許せないくらい長い。
とにかく全てのシーンが冗長。
監督がロケハンという名の旅行Vlogで撮れちゃった各国の興味深い風景(伝統芸能の影絵、観覧車を漕ぐ少年たち、ホーチミンのおそろしい数のバイク、カラオケ屋さんで熱唱する市民、ネオン煌びやかな道頓堀、上海の摩天楼…などなど)を、どれもこれもカットできなくてぜーんぶ全尺で使っちゃいました。だってこの映像、どれも西欧人のボクらから見たら興味深くて面白いんだも〜ん!
…てな具合で、全部が想定の1.5倍長い。再生回数多いVlog系YouTuberのほうが飽きない編集をできてる。
チープだろうが辻褄が合ってなかろうが、テンポさえ良ければ「そういうもの」として楽しめるのに、全てが長すぎるせいで歩み寄ろうにも寄りしろがない。
映画の長さを知らずに映画館に入ったのだが、鑑賞しながら「あれ…? 終わらないな…」「そろそろ終わるかな…? …終わらないな…」「もういいんだけど…終わらないな…」と、あれよあれよと2時間10分。
長すぎるだろ!!!!!
95分なら「珍しいものを観たね」で許せた。
75分なら「挑戦的な作品だね」と称賛できた。
けど129分は許せない。
後半はこちらの集中力も切れ、完全に飽きてきて睡魔との戦い。けど「もう絶対にこの作品は二度と観ないから」という理由だけで、この後どうなるのか物語の結末はどう終わるのかを見届けなければ…と目をかっぴらく。
しかし終わってみても、ハッキリ言って129分もやるほど話の内容はない。
【これは完全なネタバレだが】男が女との結婚にひるんで逃亡し、女が追い、しかし2人は出会うことなく女が病におかされて道中で亡くなる…という、それだけの話。ほんとうに。ほんとうにそれだけ。
前半、追われる男・エドワードの旅が上海でひと段落したかと思ったら、カメラは追う女・モリーのほうへ移り、まさかのモリー編に突入。再度、エドワードの出発地点のシンガポールから仕切り直しで同じルートをやり直す。しかもこれが、ダイジェストとかじゃなくエドワード編と同じ力量でやってくる。
ラストはついに2人が出会ってドラマティックなエンディングに…!? と期待してもそんなことは起こらず、急に終わる。あんなに長かったのに、終わるのはめっちゃ急。
「ここでは終わるなよ!? そろそろ終わって欲しいけど、ここでだけは終わるなよ!?? まだ話は決着してないぞ、この先があるんだよな、ちゃんとした結末を用意しろよ、まだ終わるなよ、終わるなよ、終わるなよーーーー…!!??」
終わった。
- fin -
人生観とか含蓄とか教訓とかそういうものは何ひとつなく、古典的な「追う女、追われる男」のプロットを踏襲してコメディちっくに情けない男と情熱的な女を配置しただけで、さんざん観客を振り回した挙句にラストはなにか事情でもあったかのように急に物語が畳まれる。作者が執筆中に亡くなったとかそういう事情でもない限りここで終わる意味がわからない。
あまつさえ、最後に表示されるのは「妻に捧ぐ」の文字。この話のなにを妻に捧げんねん。
結婚直前にトンズラして女にさんざん探させて(そしてこの女がまたヤバい)、女はその努力むなしく病に倒れる…。この不幸なイカレ女がアタシってか?
と、私だったら夫婦喧嘩の種になりかねない、パートナーに捧げるプレゼントとしてあまりにも悪手。
よしんばロケハンに妻が帯同していて、実はあの映像たちは妻との夫婦旅行の思い出でもあった…とかなら捧げる意味も分かるが、だとしたら家でやってくれ。これを129分観ても楽しめるのはこの旅を一緒に回った妻だけだ。
絶妙に鼻につく主人公たち
そして何よりこの主人公の片割れ「追う女・モリー」、エドワードパートではエドワードがどこに逃げようともものすごいスピードで追ってきて、どうやっているのかエドワードが行く先々のホテルに「もうすぐ着く」と電報で報せてくる恐怖の女。
事故や密入国で転々としているエドワードの行方を探し当てる探知能力は意味わからないし、こんだけ逃げてる婚約者を執拗に追う執念も理解できないし、そして逃げられてる相手に電報で「もう着く」と知らせてくる行動も意図が読めん。
もはやサイコスリラーのキラー役に近いモリー、いざ画面に登場したと思ったら、ガチでエドワードの愛を信じている盲信者。自分が追いつけば必ず自分と結婚してくれると信じている。
エドワードを追う先々で、そこで出会った西欧人に「やめときなよ」と諭されるのだがまったく怯まない。恐ろしいまでの信念でエドワードを追う。
極めつけに、笑い方がめっちゃ不快。
関西の小さな劇場でこの映画を鑑賞したのだが、場内には他に10人前後、みな中年以上の同席者がいた。後半は集中力が切れているのがありありで、咳が止まらないおじさん、途中退出するかどうかを普通の声量で相談しはじめちらちらとスマホを開く老夫婦、とお世辞にもマナーが良いとは言えない環境だった。
しかし咳おじも雑談夫婦も問題にならないくらいモリーの笑い方が不快。
もうこんだけ不快な映画観てんだから、咳とかの生理現象も雑談したくなるのもスマホ開きたくなるのも気持ちが分かりすぎて1ミリも苛立たない。むしろこの人たちもこの苦行に共に耐えている仲間だと思えば心強くすらある。
そして作中のエドワードも、このモリーの周りを見ずにおかしな笑い方をぶちかます空気読めなさ、自分の信念を一切疑わない狂信ぶりにおののいて結婚から逃げてるのだろう、と想像できる。はっきり言ってキツい。
エドワードもエドワードで、行動は意味不明だし優柔不断だし、なにより不運すぎ。まぁコメディの主人公の宿命なのかもしれないが。
それにしたって主人公2人が嫌すぎて見てられない。彼らに興味を持てない、彼らの物語を追えない。それなのに長い。そしてちゃんと終わらない。
たのむ。
たのむから、一瞬だけでも「観客」というものを意識してくれ。客観視というものをしてくれ。
これが「映像撮るの楽しい〜!」という初期衝動で撮られた学生の自主制作映画ならめちゃくちゃ理解できる。今はまだやりたいことばかりやってるけど、今後のキャリアで引き算の美学を学んでいくんだろうと微笑ましく見てられる。
はたまた70歳以上の大ベテラン監督が、もうさんざん商業的なことをやってきたから余生では撮りたいものを撮るんだ、と趣味に振り切ったのならそれも分かる(『PERFECT DAYS』のように)。私の好みではなくとも功労賞だと納得できる。
だがミゲル・ゴメス監督、53歳はまだ若い。
また許されん。あと20年待ってくれ。
妙に技巧派なのがまた憎い
こんだけ駄作ならいっそ、ほんとうに目も当てられないほどの駄作であって欲しい。
でもやっぱり、なんやかんやしっかりした監督が指揮をして各国の優秀なスタッフが固めているから、キャリアに裏打ちされた技巧が随所に光る。それが憎い。
2020年のロケ映像と1981年舞台のセット撮影、そしててんでバラバラな言語たち、モノクロ映像とカラー映像。普通なら食い合わせが悪すぎて見てらんないはずの組み合わせなのに、音楽や間、繋ぎ方が絶妙なので違和感なく身を委ねられちゃう。
退屈だし飽きるし冗長なんだけど、でも「見づらいな」「粗いな」とは感じさせない。技術のある人たちが、丁寧に丁寧に作った感じはある。
いわば走行音が静かで一切ガタつかない、滑らかな最新車に乗っているようなモン。静かすぎて眠たくなるけど、でもガタついて会話が途切れるということはない。ぜいたくな革張りのシートに身を鎮めれば、立つのも億劫でそのまま身を任せちゃう。
なんやねん。
ガタガタであれや。
けっきょく天才なんかい、天才の暴挙を見せられてるんかい。
こっちがあれやこれやと頭を捻って理解しようと努める中、当の監督自身は「理解しようとするようなものなど何もないけど?」とケロッとして大長編を差し出してくるのが腹立つ。あれ。理解しようとするに足る、なんか深い意味、あれ。
そんでこれが「考察や批評に溢れた頭でっかちなエンタメ界に、理解や分析などする余地のない芸術作品で殴り込んだ」みたいな意図すらない、悪意も善意もなくただ「こういうのが作りたくて作った」以上に踏み込みようがないのがまた腹立つ。
そりゃ考察しようと思えば、「ディズニーをはじめアメリカ圏の作品がこれまで黒人や多民族にしてきた罪の贖罪に追われている21世紀初頭のいま、20世紀初頭に西欧の帝国主義がアジアを植民地化しあまつさえ『グランドツアー』と称したアジア旅行が富裕層で大流行した、その罪を再認識する」「実際に、映画の中にはアヘンを吸う中国人や『西欧人を殺した罪』で捕まった死刑囚が登場する」「アジア文化は西欧人にはとうてい理解できないし、その意味で支配もできない」みたいに歴史を重ねることもできる。でもこの作品にはそんな意図がないことがありありと分かる。
西欧人の目線で後進国の異国情緒を切り取ることの暴力性はさんざん議論されたはずだし、「結婚がイヤで直前で逃げる男」という主人公像も2020年を超えた今ではイマイチ笑えないし、全部が全部ポリコレ的にアウトなラインを踏んでるはずなんだけど、なんかもうこの監督にはそういう話が通じないことがなぜか分かる。
そうか。
ほならもうこの話、やめるか。
と、諦めてこの映画の存在を受容するしかない不動の「ケロッと感」がこの映画に付け入る隙を与えない。
これがカンヌを受賞する不可解
いやべつに、この映画がこの世に存在することは良いことだと思うんです。というかそうであるべき。
どんな駄作も、この世に存在してはいけないものなどない。
どんな駄作も、誰かにとっての名作なんだし。
でもこれが、カンヌを受賞し全世界に配給されるという興行的な成功の一定のラインを超えている意味がわからない。
ひっそりと国内で上映されているなら分かる。
一部のファンに愛されているなら分かる。
これがわざわざ日本にまで届くのはあまりにも不可解。(まぁ、近浦啓監督をはじめ日本のスタッフが関与しているからなんだと思いますが…。)
数々の映画賞を受賞しているのも不可解。
そんで映画ファンのほんの片隅にいる私の足を、遠方のミニシアターにまで運ばせたのもあまりにも不可解。
いやまぁ、映像史における意味とかは想像はできるよ。
映画の先祖キネマトグラフ(活動写真)は、当初はストーリー性など一切なく、街の風景を記録しただけのもの。それをわざわざ人々は鑑賞しにいき、向かってくる汽車の映像で轢かれるかと思ったり、水を撒いてる映像で思わずのけぞったりしたとか。
キネマトグラフが出始めた20世紀初頭を舞台に、21世紀の「活動写真」を上映する。極東のアジアへの「グランドツアー」という糸が100年の歴史を、ロンドンとアジアという地球の裏表を縫い合わせる。
わからなくはないんだけど、そんなことどうでもいいくらい退屈じゃない???
私はこの映画を見たということをこの先、何年覚えていられるかわからない。
でもこの映画を見たことが、私の人生や世界を見る視界を、ぐっと、押し広げたことは間違いない。
不思議と「時間返せ」とも思わず、こんな変な作品を「変!」と心置きなく言わせてくれることに感謝の気持ちすらある。
他の作品を酷評するときは「ノットフォーミーだっただけなのに酷いこと言ってごめんな」という後ろめたさがあるのに、この作品については何を言ってもこの作品の存在の貴さに1ミリも傷がつかないことが分かる。言葉で考え、意味という泥団子をこねくり回す私たちとは根っから違う次元で「映画」というものを扱っているのが分かる。異次元の上位存在に、なにをやっても勝てない状況に似ている。
なんなんだ。『グランドツアー』。
もしもそんな不思議体験をしてみたいという奇特な方がいらっしゃったら、ぜひ劇場に足を運んでください。家では絶対に途中で挫折するから、ぜひともこの不快体験を、劇場で。
改めて、予告編。
…うん、そう、嘘じゃないんだよなー!
映画讃歌だし類まれだし、時空を超えているし、現代の映像が使われていることもちゃんと予告されている、でもまさかここまで退屈だとは思わなかったんだよなー!
ところで、予告で知ったけどアリ・アスター監督の新作出てるんじゃん! しかも主演はまたしてもホアキン・フェニックス!
また不幸に見舞われるホアキンの困り顔を堪能できると思うとワクワクが止まらないね。
近所ではもう少ししたら上映されるらしいので、見ます。
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