少年は迷っていた。今後彼はどうすべきだろうか。いや、何もしない方がよいのだろうか。おそらくは、その方がよいのだろう。何も知らなかった振りをして、それまで通りの、平凡な日常を反復する方が。
少年はどちらかといえば、さほど目立たない部類の人間であった。率直に言ってしまえば、地味だった。それまで周囲の人間に注目されているなどと感じたことは一度もなく、こちらも他の者を注意して眼で追うことなどなかった。特別に関係の深い友人の類はおらず、朝起きれば学校へ行き、講義が終わればまっすぐに帰路についた。自分は常に陰を縫って歩く生き物だと、積極的に意識こそしなかったが、なんとなく感覚的に思っていた。
少年は家に帰る道中であった。じっとりと晴れた夏のことで、蝉がやかましく鳴いていた。赤い眼を光らせ、けたたましい音を立てながら踏切の遮断機が下りるのを、少年はアスファルトの坂道を下りながらぼんやりと見送った。急いでいたわけではなかったので、遮断機が下りてしまう前に駆け足で線路を渡ってしまおうなどとは思わなかった。もとより、少年が急いでいることなどたいていはない。彼を待つ人間を、彼は持たないからだ。
少年は踏切のカンカンと鳴く音と、蝉の求愛の声を聞くともなしに聞きながら、列車の通過を待った。線路を伝って、電車の走る振動が伝わってきた。今日の踏切はやけに長いな、と少年は感じた。そんなことをふと頭に浮かべてしまったのが、そもそもの間違いであったのかもしれない。
少年はふと首を回して、道の隅に立っている掲示板を見た。内容に興味があったわけではないが、その下地の緑色に眼球を引っ張られたように、少年の意志と関係なく体が動いた。そして大きく目を見開いた。ほとんど悲鳴が喉から出かかったほどである。
少年は即座に首を前に戻して、何も見なかった素振りをした。鼓動が速く、鐘のような音を立てている。早くなる呼吸をどうにか落ちつけて、もう一度身体を回して掲示板を見た。やはり、と彼は確認した。そこには彼の顔と瓜二つな似顔絵が貼ってあるのだ。紙の上部には、指名手配、と書かれている。似顔絵の下には、コンビニ強盗犯だとあった。むろん、少年はコンビニ強盗などはたらいた覚えはないし、自分とは全く無関係の赤の他人であると分かっていた。しかしそう思い込むには、その絵はあまりに彼に似ていたのである。同じだった、という方が正確かもしれない。なるほどよくよく観察すれば、眉や鼻のとがり具合は異なっているが、全体の印象がまるで鏡で映したようであった。他人から見れば、すぐには判別がつかぬかもしれない。
少年は恐ろしくなった。毎日この掲示板の前を通る自分が、いつ人違いされ捕まるとも知れない、と思った。恐ろしくなると途端に、それまで意識しなかった周囲からの視線を、一身に集めている気分になった。目に映るすべての人間が、動物が、植物や建物までもが、自分に目を光らせているような錯覚が突如として現れた。陰だけを歩いていたはずの自分に、すべての光が集まった。少年はどうしていいか分からなくなった。逃げだそうかと思ったところで、踏切が開いた。
少年は走り出そうとしたが、しかし思い直して足早に歩き始めた。奇異な行動をとっては怪しまれるかもしれない。普通に、目立たないようにしていなければいけない。幸い少年は今まで目立ったことのない人間であったので、普段通りにしていれば、目立たないということは容易であるはずだった。しかし、いつも何気なくしていたことを、意識的にするということは多少骨が折れた。他人の視線を意識しはじめたとたん、彼は自分自身の一挙手一投足を恥ずかしく思った。どこか怪しくないだろうか、強盗犯らしく見えないだろうか。仮に捕まった際に、自分は自分の無罪を立証できるのだろうか。自分の潔白を共に立証してくれる人間はいるだろうか。いや、誰も思い浮かばなかった。彼の日々の行動を管理している人間などなかった。捕まったらおしまいかもしれない。自分が例の似顔絵とそっくりであることがばれたら、その時が。
少年は自分の父のことを思い出していた。彼は自分の父を、ほとんど知らなかった。彼がまだ幼いころに、父は警察に捕まり11年間家に帰らなかった。帰ってきたのは、冤罪が発覚した時であった。